ひとやすみ・こころしらず
└十
―結が空で拳を握ったとき。
すっと襖が滑った。
『…結…?』
「っ!?薬売りさん!」
髪を手拭いで拭きながら、薬売りが思わず声を出す。
いつもは涼しげな彼の目元が、明らかな動揺を見せた。
そしてまた結もビクッと体を揺らすと慌てて身を起こし。
「…………」
『…………』
なんとも微妙な沈黙がふたりの間を行き来する。
薬売りがガシガシと髪を拭きながら、後ろ手に襖を閉めた。
何となく再度自分の袷を整えると、結は努めて明るい声を出す。
「お、お風呂行ってたんですか?」
『あー…まぁ』
「そうなんですかー…」
『…………』
「…………」
どうにも上手く続かない会話に、結の心は次第に焦り出す。
「あ、の…そうだ!お茶いれましょうか!」
居てもたってもいられなくて、布団から立ち上がろうとした。
しかしそれは、あっけなく薬売りに制される。
『大丈夫です、休んでなさい』
「っ…そう、ですか…?」
奮い立たせた膝は、カクンと再び布団に折れた。
所在無げに座る結が、しょぼくれてるように見えて、薬売りは小さく笑う。
そしてフッと肩の力を抜きながら、結の隣に腰掛けた。
俯いている結の目元が、予想通り少しだけ腫れている。
湯に浸かって落ち着いたはずの薬売りの胸が、またキュウっと締め付けられた。
(…失敗したな)
今夜もいつも通り、布団を一組しか敷かなかった。
いまから急にもう一組用意すれば、結はますます混乱するだろう。
妙な動きで、彼女を傷つけるのは本意ではない。
『…腫れてしまいましたね』
薬売りはそう言うと、そっと結の目尻を指の背で撫でた。
結は小さく息を呑むと、そのままジッと薬売りを見つめる。
何か物言いたげな上目遣いに、頭の芯がぐらぐらと揺れた。
「…すみません、私、あのまま眠ってしまったようで…」
『………』
「薬売りさん、お布団の用意して運んでくれたんですね、ありがとうございます」
『…いつもの事ですよ』
フッと薬売りが優しく、それでいて少し意地悪な表情で笑う。
(…よかった、いつもの薬売りさんの反応だ…)
結は自分の肩から力が抜けるのを感じながら、つられて目元を緩めた。
『…寝ますか』
「…そうですね」
これ以上、いろいろ考えても無駄なような気がして。
考えたところで、きっと答えは変わらないのだし。
「薬売りさん、ずっと起きてたんですか?」
『……まぁ…少し考え事を』
「へぇ…?」
二人の会話と一緒に、ごそごそと一組だけの布団が動く。
そしていつもの様に、薬売りは結を腕に閉じ込めて。
結は薬売りの胸元に顔を摺り寄せて。
いつもの様にそっと目を閉じる。
これ以上、あれこれ思い悩んでも、行き着く場所は一緒なのだ。
(…どうせ結に触れずにいるなんて無理だし)
(…だからって薬売りさんと離れてしまうのは嫌だし)
薬売りの細い指が、結の後ろ髪を梳いていく。
結は擽ったそうに、ふふっと笑うとギュッと薬売りの着物を握った。
どうにもこうにも、一緒にいるのが一番。
…でも、やっぱり願わずにはいられない。
(今は…でもいつかは…)
(…ねぇ?)
―知らぬは本人ばかりなり。
― ひとやすみ・こころしらず 了 ―10/10[*前] [次#]
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