第二章
└八
「えぇ?薬売りさん、もう出かけちゃったんですか?」
私は朝ごはんの片付けを手伝いながら声を上げた。
絹江さんが手際よくお皿を洗いながら頷く。
「ずいぶん早くに出かけて行ったわよ。薬売りさんも大変ねぇ」
「…昨日の事、まだ怒ってるのかな?」
「昨日の事?」
「あ、いえいえ、何でもないです」
今朝、目が覚めたらすでに薬売りさんの姿は無かった。
昨日、私が歯切れの悪い返事をしていたのをまだ怒ってるんじゃないかと、内心ビクビクしてたのだ。
「薬売りさん、いま西通りの屋敷に行ってるんだって?」
「あ、庄造さん」
お客さんに呼ばれて台所を出た絹江さんと交代するように、一段落した庄造さんが話に混じる。
「西通りの屋敷って言やぁ、例の未亡人がいるところだろ?」
「未亡人?」
「そうそう、早くに旦那を亡くしてさ。って言っても元々婿さんだったんだけどね。だから今でも女主人として屋敷にいるんだけど…いやぁそれがまたえらい美人なんだと!だから通ってくる男も途絶えないってさ」
「そ、そうなんですか…」
美しい女主人…
そんなに危険な場所でもなさそうだなぁ…
「じゃあ昨日の首の傷は何だったんだろう?」
「傷?」
「あ、はい。昨日、薬売りさんの首筋に赤い痣のようなものがあったから…怪我でもしたのかなって」
私が自分の首を指差しながら言うと、庄造さんが一瞬目を丸くしたあと声を上げて笑った。
「そいつぁ薬売りさんも隅に置けねえなぁ!」
「えぇ??」
「あの冷静沈着な薬売りさんも、未亡人の色香には勝てなかったって事…」
「あんたっっっ!!!!!」
いつの間に戻ってきた絹江さんが大きな声を上げた。
庄造さんは小さく「ひっ」と悲鳴を上げる。
「何だい!大の男がベラベラと無駄口叩いて!!そんな暇があったらさっさと仕事しな!」
「何だよ…怖ぇなぁ…」
絹江さんの勢いに気圧されたのか、大きな体を小さく丸めて庄造さんはそそくさと奥へ逃げていった。
「まったく…!余計なことばっかり吹き込んで…薬売りさんの気持ちも結ちゃんの気持ちもわかっちゃいないんだから…!」
肩をいからせながら、ぶつぶつと続ける絹江さん。
「あ、あの…絹江さん?」
私の声に、絹江さんがハッと振り返った。
「あ、結ちゃん!美園ちゃん来てるわよ!」
「え?美園ちゃん?こんな早くに?」
「そうそう、ほら、早く行っておいで!ここはもういいから、ね!」
絹江さんにぐいぐいと追い出される。
「あ、そうだ!結ちゃん、変な人についてっちゃだめよ!薬売りさんが心配してるからね!」
「え、心配?」
「そう。それから今日は早めに帰ってくるって。だから結ちゃんも遅くならないようにね!」
「…はい!」
(心配…とかしてくれてるんだ…)
何だかくすぐったいような、心地いいような不思議な気分。
そんな私を見て絹江さんはにっこり笑いながら、袂を探った。
「それと…ほら、これ。そこに落ちてたんだけど、結ちゃんの?」
チリン
「あ…!」
天秤さん…!
きちんと部屋に置いてきたはずなのに。
「ありがとう、絹江さん。じゃあ行ってきます!」
私は天秤さんを懐にしまうと、絹江さんに手を振った。
絹江さんに背を向けた後、そっと懐に向かって囁く。
「…もしかして、私が出かけるって知って部屋から出てきてくれたの?」
チリンッ
「ふふふっありがとう天秤さん!」
リンッ
私はそっと懐の天秤さんを撫でると、美園ちゃんの元に急いだ。
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