ひとりじょうず | ナノ




最終章
   └二十四



まだ薄暗い町―


ハァッと吐いた息が白く濁って溶けていく。

もう桜の季節だというのに、やっぱり夜明け前はまだまだ寒い。




「…さて…」



私は担いでいる荷物を揺らして背負い直すと、もう一度振り返った。


大旅館のように大きくは無いけれど、趣ある佇まい。

藍染めされた大きな暖簾。


立派な木看板に刻まれた"扇屋"の文字。




「いろんな事があったなぁ…」



しん、と静まりかえる扇屋に、まだ生活音はしていない。


今日は早出のお客さんもいないらしい。

そんな事を、昨日庄造さんが言っていた。


私は隅々まで目に焼き付けようと、ぐるりを見渡す。



絹江さんと洗濯をした中庭。

赤ちゃんを背負いながら笑う絹江さんは、一層頼もしく見えた。



そしてその傍らの井戸で包丁の手入れをする庄造さん。

目尻を下げながら赤ちゃんを懸命にあやしてた。


時折私の頭も撫でてくれて…

大きくて暖かい手が何だか照れくさかったっけ。



あっちの陰は、弥勒くんと一緒に掃除した大浴場。

途中から飽きてしまってふざけ始めた弥勒くんは、盛大に滑って転んでた。


しかもそれが絹江さんにバレて、薪割りも追加されてた。




「…ふふっ」



私はその時の弥勒くんの顔を思い出して、思わず笑ってしまう。



それと、あっちの奥には庭を横切る短い渡り廊下。

小さな庭の花々はいつも綺麗に手入れされてて。


やたさんが花の名前を教えてくれた。

風に煽られて折れてしまった細い茎を、「内緒やんね」と言って不思議な力で直してくれて。


なんだか嬉しくて二人で笑った。




「…………」




そして…

そして、二階のあの窓辺は、薬売りさんと過ごした部屋。


可愛らしい窓飾りがあって。


あそこの手すりに凭れながら、薬売りさんは煙管をふかしてた。

風が窓飾りを揺らして、薬売りさんの細く吐く煙を空に巻き上げる。


お留守番の時には、今度は私があそこから顔を覗かせて。

通りの端に青い着物を見えると、身を乗り出して待っていた。


段々近づく姿が嬉しくて、手を振ったりしてたっけ。




「………っ」



視界がぼやけてきて、私はきゅっと唇を噛んだ。

そして無言のまま、深々と頭を下げる。



…本当はこうして外に出るまでもものすごく時間がかかった。

音を立てないように、そーっと戸を開けた割には一歩がなかなか踏み出せなかったのだ。



まだ本調子じゃ無い薬売りさんは、私が布団を抜け出した事に気付いていないはず。

同じように絹江さんや庄造さん、やたさん弥勒くんも…。


目が覚めたときに、傍らに置いた手紙とお守りに気付いてくれるだろうか?

…ちゃんと別れも言わずに去る私を許してくれるだろうか。


ほんのりと漂う不安を払うように、私はぶんぶんと頭を振った。




(…もう決めたんだから…)



何度も何度も考えた。

お世話になってこんな不義理はしてはいけないって、罪悪感もある。


でも、もう決めたんだ。




「…うん」



私は小さく頷くと、扇屋に背を向ける。




「大丈夫…大丈夫…」



そう呟きながら、静かな町を一人歩き始めた。

薬売りさんへの手紙を思い返しながら…



24/35

[*前] [次#]

[目次]
[しおりを挟む]




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -