最終章
└二十
「はぁ〜、あいつには色も恋も縁遠いんやんなぁ…」
「あはは、でも弥勒くんらしいですよ」
やたさんは風呂敷を叩きながら、小刀を仕舞った。
そして私を見て、ふにゃんと笑う。
「でも弥勒やないけど…似合っとるよ」
「えへへ…やたさんにお願いしてよかった!」
やたさんの視線が面映くて、私は弥勒くんのように頭を掻いた。
「…何よりも、顔つきが変わったやろか?」
「え……そう、ですか?」
「あぁ、赤ん坊が生まれた時からかね?何だかすっきりした顔しとるよ」
いつものように柔らかい笑顔だけれど、やたさんの視線は真っ直ぐで。
その芯の強い眼差しの前では、何もかも見透かされてしまっているような気分になる。
「そういう顔は…吹っ切れたか、何かの決意をしたかのどっちかやに」
やたさんの言葉に、私は曖昧に笑った。
「まぁ…前よりは心配じゃあなくなっただけ良しとするんかね」
「……はい、そうだって…私自身が思えますから」
私がはっきりとそう言うと、やたさんはまたふにゃんと笑う。
「…何がどうあっても、結ちゃんの人生は結ちゃんのものやわ。もちろん…君の心もな」
さらりと私の髪を撫でながら、やたさんが言う。
(…私の…心も)
ぼんやりとやたさんの顔を見ていると、やたさんは「あ!」と素っ頓狂な声を上げた。
「俺も結ちゃんにお願いがあるんやに」
「え?」
やたさんは手を止めると、おもむろに私の前にしゃがんで視線を合わせる。
そして少し困ったように眉を下げると、ぺこりと頭を下げた。
「あのな、弥勒の事なんやけど…あいつ、俺のとこに連れて行ってもええやろか?」
「え…やたさんのところ?」
「うん、熊野に弥勒も連れて行きたいんや」
すうっと風が通り抜けて、短くなった毛先が私の頬を撫でた。
「弥勒な…このまま烏の姿に戻ったら、思うんやけど数日で死んでしまうんやに」
「え……っ」
とんでもない言葉に、ドキッと胸が軋む。
「人間の姿になって、こうして結ちゃんと一緒に居て…そんで今回の怪我やわ。ほんまは物凄い消耗しとるんやに…精神力も、命も」
「そ、そんな…!」
「うん、俺だって嫌なんやわ。弥勒のことこのまま放って置けないんや」
やたさんは視線は私に合わせたまま、両手で私の手を包んだ。
そして、凛とした瞳で私に語りかける。
「あいつは十分すぎる素質がある。やから、熊野に連れてってそのまま俺のはたで勉強させたい」
「……そしたら、弥勒くんはもっと…先の未来を生きられますか?」
「あぁ、もちろん。そうは言っても神業やからね。それなりにきついとは思うけど…あいつなら神上がり出来るって、俺は信じとるよ」
"俺、強くなるよ"
さっき、そう言っていた弥勒くんの姿を思い出す。
黒曜石のような瞳は、キラキラと輝いて…
きっとあの瞳に映るのは、これから訪れる"未来"の絵だ。
私はやたさんの手を、ギュウッと握り返した。
そして少しだけ涙で滲む目を、キュッと細めて笑った。
「弥勒くん、強くなりたいって言ってました」
「…そうか…」
「私も信じてます。弥勒くんなら、きっと強くて人の心も思いやれる…やたさんみたいな八咫烏になれるって」
うん…きっと弥勒くんならなれる。
そしてこの広い空の下にいる、いろんな人を導く…立派な八咫烏に、きっとなれる。
「そうか…でもそうすると、結ちゃんにはしばらく会えへんかも知れへんし…はたにいて護ることも出来んよ?」
「私…私は……」
少し心配そうに覗き込むやたさんに、私はもう一度笑顔を見せた。
「…私は、もう大丈夫です!」
「結ちゃん…」
「弥勒くんにちゃんと導いてもらえました…大丈夫」
ふわっと風が舞って、私とやたさんの髪を揺らした。
「大丈夫です、ちゃんと…幸せになる…なってみせます!」
やたさんは、一瞬、キュッと目を細める。
でもすぐにその目元を緩めて、ゆっくりと頷いてくれた。
「さ、薬売りにも見せてやり〜きっと驚くから」
「ふふふっそうですね」
私は立ち上がると、もう一度やたさんに向き直る。
そしてペコリと頭を下げた。
「…ありがとう、やたさん」
ありがとう。
弥勒くんをよろしくお願いします。
言いたいことはたくさんあったはずなのに、言葉が出ない。
やたさんも何も言わずに、ふにゃんと笑うと、ゆったりとした足取りで扇屋の中へ戻っていったのだった。
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