最終章
└五
― 二ノ幕 ―
緑の濃い森の奥。
「…っと…!」
私は少し蹌踉めきながら地面に降り立った。
ふわっと風が吹いて、耳に聞き慣れた声が響く。
「また帰るときに呼び?はたにおるんから」
やたさんに初めて会ったときのように、彼の声は私の耳に直接届く。
私は振り返ったけれど、すでにやたさんの姿は森に溶けるように消えてしまっていた。
「ありがとう、やたさん」
少し大きめの声で言うと、遠くで烏の鳴き声がした。
――…
「やたさんにお願いがあるんです」
「ん?何やに?」
不思議そうに首を傾げて、やたさんが私を見た。
「…白夜のところに連れて行ってください」
「え……!?」
やたさんは優しく下がっていた目を、丸く見開いた。
「ちょ、何で?もしかしたら今度こそ帰れへんかもしれへんよ?」
少し眉を顰めた彼に、私は小さく微笑みを返す。
「もしそうだとしても…私、彼とちゃんと話さなきゃいけないんです」
「結ちゃん……」
「白夜に伝えなきゃいけないことが、あるんです」
真っ直ぐ見つめる私から、やたさんも目をそらさない。
少しだけ空気が張り詰めているような気がした。
「…いくら昔馴染みとはいえ、相手は鬼やんね。もしかしたら…命を取られるような事だって、あるんかもしれへんよ?」
「…………」
私の覚悟を確かめるようなやたさんの声。
でも、私は無言のまま頷いた。
「…お願いします」
改めて深く頭を下げるとややして、はぁっと呆れたような吐息が聞こえた。
「薬売りが眠ってる時でよかったー、こんなんバレたら俺何されるかわからへーん」
やたさんはおどけて言うと、私の頭をぽんっと撫でた。
「…支度できたら裏庭の目立たないところにおいなーて」
「…!ありがとう、やたさん!」
―こうしてやたさんは私のわがままを聞き入れてくれ。
約束通り、裏庭を抜けた人目のない所に向かった。
足を止めてきょろきょろとやたさんの姿を探す。
「きゃ…!」
不意にぶわっと風が吹き抜けていった。
バサッ
「お待たせー」
「!!」
大きな羽音とともに、私の耳にやたさんの声が響く。
「わ……」
私は思わず目を見張ってしまった。
いつだか弥勒君に八咫烏について教えてもらったことがある。
でも、聞くのと実際見るのとは大違いだ。
普通の鳥とは思えないほどの大きな体。
黒く艶のある見事な羽根。
透き通った金色の瞳が、まるで宝石のようで。
太く力強い三本の足が、地面を踏んでいた。
(これが…やたさんの本当の姿…!)
見たことのない姿に、恐怖など感じなかった。
ううん、それどころかただただ神々しい。
彼は人ならず、神だと言うことを私は改めて実感したのだった。
驚き立ちすくむ私の着物の襟を、やたさんがちょんっと咥えた。
「きゃっ!」
背中に私を乗せると、大きな声で一声鳴きゆっくりと両翼を羽ばたかせる。
「しっかりつかまっときー」
「は、はい!」
返事をした次の瞬間、私達は空高く舞い上がっていた。
―そしてやたさんは「この辺やな」と呟いて、ゆっくりと私を下ろしてくれたのだ。
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