第八章
└二十
絹江はそっと薬売りの部屋の襖を開けた。
薬売りは窓の方へ向いたまま、振り返らない。
彼の背中の影には、青い着物から結の足が覗いていた。
「く、薬売りさん…」
『…………』
絹江の呼びかけに、薬売りは答える事無くただ結を抱く腕に力を込める。
八咫烏は廊下で佇みながら、小さく溜息を零した。
「ねぇ…結ちゃん、濡れたままじゃない。風邪ひいちゃうわよ?」
『…………』
「せめて着物だけでも…」
『放って置いてください』
絹江の言葉をまるっと無視するような薬売りの物言い。
それを聞いた途端、絹江の表情がガラッと変わった。
「ん!?」
脇で見ていた八咫烏も、びっくりして彼女をまじまじと見つめた。
絹江は、キッと眉を吊り上げるとそのままズカズカと部屋に入っていく。
そして薬売りの脇に行くと、彼を見下ろした。
フッと薬売りが顔を上げた瞬間。
『…え…』
言葉を発する間もなく、薬売りは胸倉を掴まれた。
ぱぁん!!
「!!」
八咫烏は思わず目を瞑ってしまう。
振り上げられた絹江の右手は、鮮やかに薬売りの横っ面を直撃した。
「いい加減にしなさいよ!あんたがしっかりしなくてどうすんの!!」
薬売りは左頬を抑えたまま、呆然と絹江を見上げている。
「あんただけは…あんただけは強く居ないと駄目でしょうが!」
叱り飛ばす絹江の声が、いつの間にか泣き声に変わっていた。
薬売りはバツが悪そうに唇を噛み締めると、小さく頷く。
それを見て、絹江はフッと表情を緩めると薬売りの背中を軽く叩いた。
「ほら…まずは濡れた髪を拭いてあげないと…擦り傷につける薬、ある?」
『…はい』
「じゃあ、ここは私に任せて…結ちゃんは嫁入り前なんだから!例え薬売りさんでも柔肌を晒すわけにはいかないわ!」
そう言った絹江の笑顔が余りに清々しくて…
薬売りはそっと腕を解いて、結を絹江に託した。
「ほら、そう言うことだから、やたさん!薬売りさん連れてって」
絹江に声を掛けられて、八咫烏が襖の陰から顔をひょこっと出す。
「了解。ほれ、薬売り。ちっと来い」
薬売りは後ろ髪引かれるように結と絹江を見ながら、八咫烏に続いて部屋を出て行った。
「…全く…」
絹江は溜息を吐きながら、結を布団に横たわらせた。
濡れたままの体を拭き、薬売りから預かった塗り薬を赤くなった結の肌に塗っていく。
擦りすぎた白い肌は、痛々しいほどに赤くなっていた。
それでも手拭だったことが幸いしてか、血が滲むほどの擦り傷ではないようだ。
「…男はいざって時に頼りにならないんだからねぇ」
絹江は眠ったままの結に向かって愚痴を零した。
「本当…男って……っ」
結の寝巻きの帯を緩く結ぶ絹江の手に、ぽたりと雫が落ちた。
「…なんて…卑怯な…っ」
絹江は結の小さな手を握り締めて、声を殺して涙を流した。
しかし、すぐに大きく息を吐いて涙を拭う。
「…大丈夫、私達は味方よ」
そう言って結の前髪を指先で撫でると、立ち上がった。
「あ……」
急にフラッとした気がして、絹江はおでこを押さえる。
そして自分のお腹をゆっくりと撫でた。
「ごめんね、ちょっと無理しすぎたわ。今日は寝ましょうね」
お腹の中で小さく動くわが子に声を掛けながら、静かに階段を下りていった。
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