第八章
└七
「ほら、榮(さかえ)、お姉ちゃんよー」
「わぁ…小さいねぇ…」
母の腕の中で、弟となる榮が不思議そうに結を見ている。
小さくて柔らかくて、初めて身近で見る赤ちゃんに結も目尻が下がりっぱなしだった。
「抱っこしてみる?」
「え!だ、大丈夫かな…!?」
結は緊張しながら母から榮を受け取る。
「わ……」
結に抱かれた小さな弟は、きゃっきゃと嬉しそうに笑った。
柔らかな温もりが、結の心をきゅうっと締め付けた。
「…可愛い…!」
「ふふ、榮もお姉ちゃんに抱っこされて嬉しいわねぇ」
(赤ちゃんって不思議…)
こんなに小さな体で、大人たちの心をギュッと掴んでしまう。
柔らかで頼りない体は、どうしようもなく守りたいと思わせてしまうのだ。
「お母さん…」
「うん?」
「私、もっともっとお母さんのお手伝いするよ。榮の面倒も、沢山みる」
「結……」
「お母さんと榮のために、良い姉になるね」
結の言葉に、母は柔らかく微笑んだ。
「ありがとう…でも、邦継さん…"お義父さん"のためにも、ね?」
「……っ!」
母の一言で、結の表情が固まる。
腕の中で榮がむずがって、ふにゃっと顔を顰めた。
「あ……」
―彼がこの家に来て、母と夫婦になり結の新しい父となった。
でも、結はあの日に感じた不穏な気持ちを拭えないままでいたのだった。
"自分の父は、惣介だけだ"
そんな風に思っていたのも、少しはある。
すんなりと、邦継を"お義父さん"とは呼べなかった。
それでも、不快な思いはさせないようにしてきたつもりだったけれど…
妙な胸騒ぎは、結を掴んで離さない。
「…結?」
「あ…う、うん。そうだね」
心配そうに見つめる母に、結は慌てて作り笑顔を向ける。
…と、廊下の方から賑やかな声が響いてきた。
「あはは!本当に邦継さんは冗談が上手いなー」
「いやいや、冗談なんかじゃないさ」
やがて近づいてきた声の主が顔を覗かせた。
「結、多恵さん、こんにちは!」
「秀ちゃん!」
幼馴染の秀太郎が包みを持って、彼女達の前に現われた。
「あ、多恵さん、これうちの父から。今日はほら、おばあさんの月命日でしょう?」
「あらあら…ご丁寧にありがとうね、秀太郎くん」
結の祖母は榮が誕生してしばらくすると、まるで肩の荷を下ろしたように静かにその人生を終えた。
嫡男となる榮の誕生を、誰よりも喜んでいたのはきっと祖母だ。
もっと榮の成長を見たかったろうに…
少しだけ大人になって事情がわかった結は、そんな風に思ったのだった。
「あれ?秀ちゃん、よし乃ちゃんは?」
「あぁ。何か忙しいみたいで…何だい、俺だけじゃ不満?」
「あはは、そういう訳じゃないよー」
頬を赤くしながらムスッとする秀太郎に、結は笑って答えた。
そしてそっと母に榮を渡すと、秀太郎の方に行こうと立ち上がる。
「…っ」
上げた視線の先…廊下に立つ邦継と目が合った。
その視線は、あの不安な気持ちを感じた時のそれと同じで。
結は咄嗟に目を逸らしてしまう。
視界の端で、邦継の唇が笑った気がして、結はこっそり唇を噛んだ。
「わー、前より表情がしっかりしてきましたね」
「そうかしらね?赤ちゃんは成長が早いからねぇ」
「へぇ、あ、ほら、目元がだんだん邦継さんに似てきましたね」
のほほんとした母と秀太郎の会話に混ざるように、邦継が結の横を通り過ぎて部屋に入った。
「そうかなぁ?多恵の方が似ているんじゃないかな、口元とか…ほら、耳の形も」
「まぁ…あなたったら…」
母と邦継の会話を背中で聞いたまま、結は部屋をそっと抜け出した。
「あ、あれ?結?」
秀太郎の声は聞こえていたけれど…。
結はそのまま裏庭に駆け出していった。
「はぁはぁ…結…」
「………………」
追いついた秀太郎は結の後姿に声を掛ける。
でも結は答えないまま、肩で息をしていた。
「邦継さんと…上手くいってないの?」
「……………」
何も言わない結に、秀太郎は小さく溜息を吐いた。
「…まぁ、さ。色々思う所もあるんだろうけど…またよし乃と三人で祭り行ったりしようよ。結、最近ちっとも表に出てこないし」
「……秀ちゃん…」
「うん?」
結はゆっくり振り返る。
その表情は泣き笑いのようで、秀太郎の心臓がどくんっと一つ跳ねた。
「…ありがと…」
「う、うん。じゃあ、俺帰るよ」
「ん…またね…」
軽く手を振ると、秀太郎は裏口から自分の家へと帰っていく。
結はその姿をぼんやりと見ていた。
家の中から、邦継が見つめているのも気付かずに。
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