第八章
└一
― 一ノ幕 ―
少し茜色に染まり始めた田舎道に、笑い声が響く。
じゃれるように父親に纏わりつく少女。
ぴょんぴょんと跳ねながら、父に繋がれた手を大きく振っている。
「あら、結ちゃん!今日はお父様と一緒?」
道の脇の畑で野良仕事をしていた女性が、汗を拭いながら二人に声を掛けた。
「うん!一緒にお散歩したの!」
「そう、良かったわね」
嬉しそうににこにこと笑う少女につられる様に、女性も笑う。
「こら、結。ご挨拶しなさい」
「あ…こんにちは」
父親に窘められた少女は、改まってぺこりと頭を下げた。
その様子を見た女性と、同じく農作業をしていた彼女の夫らしき男性が挨拶を返しながら笑い声を上げる。
「惣介(そうすけ)さん、今日は顔色がいいですねぇ」
「えぇ、お陰様で」
「今日はお父さんが元気だから、結とお散歩なの!」
「ふふふ、結ちゃん嬉しそうねぇ。結ちゃんはお父様が大好きだものね」
女性の言葉に、照れたようなはにかみ笑いを浮かべる少女。
そして照れ隠しのように、その手に持っていた風車を突き出した。
「見てー!これ、お父さんが作ったの!」
「あらあら、綺麗ねぇ」
「ほー、惣介さんは本当に器用だなぁ」
少女はまるで自分が褒められたかのように得意気に笑うと、父の姿を見上げる。
父は目を細めると、愛おしそうに少女の頭を撫でた。
「さ、結。お母さんが待っているから帰ろう」
「うん!おじちゃん、おばちゃんさようなら!」
元気良く手を振る少女に、笑いながら手を振り替えす農家の夫婦。
仲良く手を繋ぐ親子は、また田舎道を少女の足取りに合わせてのんびりと進んだ。
「あ!お父さん!お池に寄ってく!」
「えぇ?もう日が暮れちゃうよ」
「ちょっとだけ!ね?」
あと少しで家に着くという時に、少女は父を見上げて寄り道のおねだり。
父は仕方が無いな、と小さく笑いながら少女のお願いを聞き入れる。
「結は本当に"星のお池"が好きだなぁ」
「うん!結、あのお池大好き!」
少女はご機嫌な様子で足を進めていく。
―"星のお池"とは、もちろん正式な名前では無く。
少女が付けた愛称のようなものだった。
「わー…今日も蒼くてきれいー!」
「本当に…ここはいつ来ても静かで綺麗だなぁ…」
脇にそれた小路を行くと、森と呼ぶには小さすぎる、池のほとりに着いた。
池の周りには大きな木が沢山あって、少女はぐるりを見回す。
烏の鳴き声が遠くに聞こえる他、辺りには何も音は無い。
時折吹く風が水面を撫でて、少しだけせせらぎの様な心地よい音色がわたるだけだった。
少女がこの池を"星のお池"と呼ぶようになったのは、その年の夏からだった。
夏の初めに一度、父と母、そして祖母と一緒にこの池に蛍を見に来たことがあるのだ。
宵闇の中での外出するという異例のことに、妙なわくわくを感じながら父と手を繋いで夜道を歩いたのを良く覚えている。
その時の蛍の仄かな灯火と、空を見上げた時に目に飛び込んできた満点の星空が、少女には何よりも美しく見えたのだ。
だから、"星のお池"…という訳である。
「またお母さんとおばあちゃんと蛍見に来ようね!」
「…そうだな、また来れるといいな」
少女の屈託無い笑顔に、父は少し淋しそうな笑顔で答える。
「次の年も、その次の年も…ずっと結と蛍が見たいなぁ…」
そう呟いて空を仰いだ。
辺りの木々がぽっかりと開いた箇所から、切り取られたような茜色の空が覗く。
まるで絵のような空を、父は胸を痛めながら見つめた。
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