第七章
└十六
「はぁっはぁ…っ」
暗い道を闇雲に走った。
頬を叩く雨粒がいつの間にか流れていた涙に混ざっていく。
「は…っ…ッく…」
痛む胸は走ったせいか、それとも…
「う…結……っ」
それでもよし乃はただひたすらに走る。
ぬかるんだ足元は不安定で、何度も転びそうになりながら。
「―あ〜ぁ…やちゃったね」
「っ!!!誰…!?」
急に聞こえた声に、よし乃はぴたりと足を止めた。
声の主を探そうと、きょろきょろと辺りを見回す。
しかし鬱蒼とした森が広がるばかりで、誰の姿も見えない。
「…本当に君は美しくないね」
よし乃は、ハッとして視線を元に戻した。
「え……」
どこから現われたのか、よし乃が進もうとしたその道に一人の男が立っている。
空に稲妻が走り、一瞬その姿を浮き上がらせた。
「ひ…っ」
よし乃の目の前にいたのは、鬼だった。
白銀の長い髪を揺らしながら、その隙間から二本の角が見えている。
「どうして結にあんな事を?」
問いかけながら一歩近づいてくるその男。
よし乃の体は金縛りにあったように動かなかった。
夜空が光る度に、彼の姿の詳細が見えてくる。
白い神装束を身を纏ったその男は、赤く光る瞳を細めて、唇には微笑みすら湛えていた。
飄々としたその雰囲気が、余計によし乃を震えさせた。
「…そんなに結が妬ましかった?」
「……っ、私は…」
「結が嫌いだった、でしょ?」
「……私はただ…」
男が濡れた髪をかきあげると、耳元で蒼玉の勾玉が揺れた。
「あの子は…恵まれてて…っ!ずっとずっと子供の頃から…いつも笑ってて…っ」
よし乃は喉を詰まらせながら声を出す。
…本当はわかっていた。
自分の気持ちは嫉み以外のなんでもない。
裕福な家柄と、優しい両親。
誰からも好かれて、本人も人好きして…
初めてずっと一緒にいたいと願った男の子すら、彼女に夢中で。
でも。
でもそんな醜い感情を押し込めている私にすら、笑顔で…
「…ずっと…私のことをお姉ちゃんって…それなのに私はただ妬ましくて…」
「羨ましくて…」
「ずっと…ずっと……っ…う…」
何て酷い事をしてしまったのだろう。
あんな事があって辛かったのは結なのに。
どうして暢気だなんて。
どうして許さないだなんて。
よし乃は震える手で顔を覆った。
掌を生温い涙が伝っていく。
「本当は…本当は…っ」
俯くよし乃の頭にそっと何かが触れた。
「…本当は大好きだった、本当はね?」
予想外に優しい声音によし乃はゆるゆると顔を上げる。
「…え…っ」
しかしその視界に入ったのは、目の前で広げられた掌だった。
「でも、今更遅いよね」
「な、何……」
「結の記憶は解れて解けて…もう元には戻らない」
閉ざされた視界に、男の冷たい声だけが響く。
さっきまでゴロゴロと鳴っていた雷の音すら消えていた。
「嫉み、僻み…本当に君の"絶望"は底が浅くて美しくない」
「あ…あ…」
「君も落ちるといい」
よし乃の目の前の掌が仄かに光った。
「…白い世界に落ちるといいよ」
「…ひ…っ」
「さようなら、よし乃ちゃん?」
光る手に吸い込まれるように、よし乃の意識は遠ざかっていく。
(…結………)
最後に見たのは、冷たく笑う美しい鬼の顔だった。
→17/25[*前] [次#]
[目次]
[しおりを挟む]