第六章
└一
― 第六章・小話 ―
深夜…
八咫烏にようやく解放された薬売りは、そっと襖を開けた。
そろりと中を覗いて、ふっと息を呑む。
「…あ、薬売りさん…」
『…起きてたんですか』
いつもはとっくに眠っているはずの結が、薄暗い部屋で彼の帰りを待っていたのだ。
結は窓辺で頬杖をついたまま、薬売りを振り返って笑った。
「お帰りなさい…ずいぶん飲んだんですね」
少し抑え気味の声でクスクス笑う結を見て、薬売りも小さく笑う。
『…彼は笊を通り越して枠ですよ…些か疲れました…』
薬売りは溜息を吐きながら、結の隣にゆっくりと腰を下ろした。
「でもそれに付き合える薬売りさんだって、十分お酒に強いんじゃ…」
『…まぁ…多少は酔ってますよ』
月明かりの射し込む部屋で、二人は内緒話をするかのように言葉を交わす。
こんな風に声を潜めているせいだろうか。
いつもより、結との距離が近く感じるから不思議だ。
『…今日はずいぶん夜更かしですね』
「そうなんですよ…何だか目が冴えちゃって」
そう答えると結は溜息混じりに空を仰いだ。
つられる様にして薬売りも窓の外を見上げる。
そこには眩暈がしそうなほど、輝く星。
ちらちらと揺れて見えるのは、酒のせいではないはず。
「今夜は星がいっぱいですねぇ」
結は穏やかな顔で微笑んでいて。
『…………っ』
薬売りは照れくさいような、それでいて泣きたくなるような…
結の横顔を見ているのも、何だか苦しくて。
それなのに、今、目を離せばもう見ることが出来なくなりそうで。
「…薬売りさん?」
気がつけば無意識のうちに、彼女の頬に指を伸ばしていた。
戸惑う表情を浮かべた結の頬は、するりと滑らかに柔らかい。
「ふ、薬売りさ…くすぐったい…!」
『…………』
するすると撫でる指先に、結が表情を崩して身を捩った。
それでも薬売りは無言のままにその手を止めない。
『…今日…』
「…え?」
『今日、何で泣いたんですか?』
薬売りの質問に、彼女は少しバツが悪そうに視線を泳がせた。
そんな様子を見て、薬売りはあからさまに機嫌を悪くする。
『…言えない事ですか…』
「え、あの…」
『はぁ…っ、結がまた隠し事を…』
「ちょ、違いますよ!」
『しかも見知らぬ男を部屋に連れ込んで…』
「変な風に言わないでください!」
ゆるゆると撫でていた指先は、いつの間にか力がこもり。
「いひゃい!」
いつも通りに結の頬を抓っている。
もっと優しく聞けないものかと思う所もあるのだが…
こればっかりは性分なのでどうしようもない。
『私以外の男に…』
「ふぇ?」
『私以外の男に泣かされるとは、根性が足りないんじゃないですか?』
「ふへぇぇ!?」
ふんっと鼻を鳴らして指を弾くと、結は涙目で恨めしそうに薬売りを見た。
「ちょっとだけ…思い出したんですよ、昔のこと…」
『…………』
薬売りと結は、肩を並べて外を眺める。
二つの背中が微妙な距離を保ったまま、薄闇に並んでいた。
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