第六章
└十
― 四ノ幕 ―
「う、うえぇぇぇ…」
ふらふらと道を歩きながら、弥勒が何度目かの嘔吐をした。
薬売りはそんな彼を心底嫌そうに横目で見る。
『…なんだ、みっともない…』
「お、おま…そんな事言ったって…」
ついさっきまでの惨状を思い出して、弥勒はまた込み上げてくるものを必死で堪えた。
「…っぷ…、おい、薬売り…まさかいつも結をあんな現場に…?」
口元を押さえながら、弥勒は微力ながら睨み付ける。
すると少し先を行く薬売りは、振り返ることなく鼻で笑った。
『…連れて行くわけ無いだろう。あんなおどろおどろしい物…見せられるか』
「ちょ…俺はいいのかよ!!」
『今日の"仕事"は楽な方だ…理も真もあっさりとわかったし、形こそ醜悪だったが…』
やれやれと言った風に薬売りが肩を竦めると、モノノ怪退治の現場をまた思い出したのか、弥勒は口を抑えて茂みに顔を突っ込んだ。
道すがらの小川で弥勒がばしゃばしゃと顔を洗う。
薬売りもその傍らで、知らぬうちに付いてしまっていた不穏な肉片らしきものを洗い流す。
「おま…!!川上でそういうの流すなよな!!」
『…はぁ…やかましい…』
弥勒は少し身を引いて、怪しい物体が流れていくのを目で確認すると、改めて顔を洗い出した。
『……………』
(…おぉ…烏の行水…)
「…お前、何か失礼な事考えてるだろう…?」
『…ふっ…』
「笑ってるんじゃねーぞ!!この極悪薬売り!!」
…何だかんだでそこそこ仲が良かったりするのである。
着物の袖で顔を拭きながら、弥勒はぼんやり思い出していた。
「…なぁ、結の見た紅い大きな…犬?狼?ってさ。どんな奴なんだ?」
チラッと弥勒を一瞥すると、薬売りはゆっくりと歩き出す。
『…さぁ、俺は姿を見たことがない』
結は、先日不思議な空間に迷い込んだとき、助けてくれたのは紅い大きな犬のようなものだったと言った。
(…大きな犬…モノノ怪、か?)
しかし、少なくとも結を危険に晒そうとはしていない。
その点は、まぁ安心ではある。
『…………』
安心ではあるんだ。
しかし、何故か胸が焦らされるような…
何とも言えない気分が拭いきれない。
…妙に、不安になるのだ。
少し考え込む薬売りの後姿を眺めながら、弥勒はぽつりと呟いた。
「……結の周りにいた奴、かなぁ…?」
『っ!』
弥勒の言葉に、薬売りは勢いよく振り返った。
『結の周りにいた奴とは…この前言っていた奴のことか?』
前に、女郎蜘蛛の屋敷に行く際に弥勒に結の周囲の監視を頼んだ。
その時に弥勒から尋ねられたのだ。
「結に初めて会ったときに…結以外に誰か近くにいたか?」
薬売り自身には思い当たる節がなく、その話はそのまま終わった。
薬売りの問いかけに、弥勒は眉間に皺を寄せ首を捻る。
「…正直、気配を感じていただけでそれが何だったのかまでは…」
『じゃあ…人か獣か、あるいは…』
「モノノ怪…か…?」
二人は無言で顔を見合わせた。
不穏な風が二人の間を吹きぬけていく。
『気配を感じているだけなのに…なぜそんなに拘る?』
弥勒は薬売りの鋭い視線から逃れるように、顔を俯けた。
そしてボソッと言う。
「…変わった気がしたんだ、結が」
『変わった?』
「あぁ…段々と…。いや、元々何かに傷ついていたのは知っていたけど…ある日を境に、感情が無くなったって言うか…」
言葉を続けるにつれて、弥勒は悲しげに眉を寄せる。
「感情が無くなったとは違うのかもしれないけど…なんかこう…」
『…………』
「心が冷えた、って言うか…」
弥勒の一言で、薬売りは結に出会った場面を鮮明に思い出した。
白い、真っ白い揚羽蝶のような。
鋭くて、それでいて触れれば崩れそうな脆く危うい切っ先…
『…………』
「その頃と、気配を感じるようになったのが同じくらいだから…何か関係があるんじゃないかって」
空虚で儚げな結の瞳が、薬売りの脳裏に浮かぶ。
『…帰ろう、結が一人で待ってる』
薬売りはそう言うと、扇屋への道を足早に進んだ。
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