第六章
└七
― 三ノ幕 ―
不思議な感覚を残したまま、私は扇屋へと戻ってきた。
でも、さっきまでのモヤモヤした気持ちは無く…
少しだけ前向きになった気持ち。
自分の単純さに自分でも呆れてしまう。
もし…もしこのまま、私が記憶を戻したくないと言ったら薬売りさんは受け止めてくれるだろうか?
(…ううん、そうじゃないよね…)
…薬売りさんが受け止めてくれるかじゃなくて。
薬売りさんが受け止めたくなるように、私自身がそう態度で示さなきゃいけないんだ。
今は正直、自分がどうしたいのかわからない。
頭と心に燻るもやもやを、どうしたいのか。
ハッキリと自分で決められないのに、彼の反応を心配したってどうしようもないのだ。
その答えが出るまで…
私は薬売りさんに対して、正直でいよう。
(…全く不安が無いって言ったら嘘だけど…)
こうして今ここにいられる状況を作ってくれた薬売りさん。
意地悪だけど、本当は優しい薬売りさん。
自分が薬売りさんの役に立てるとは思えないけれど…
でも、自分の過去に向き合えなくても、彼にだけは正直でいたい。
日々の些細な事も、この気持ちも…
「………」
私は思わず、ほんのりと温かくなった胸元をきゅっと握った。
―ちりん
「あ…そうだ、天秤さん!」
すっかり存在を消していた天秤さんは、するりと着物の袷から出てきた。
手の平で天秤さんがゆらゆらと揺れる。
「…天秤さん、私、まだまだだけど応援してくれる?」
りりんっ
天秤さんはくるっと回って、涼やかな音を響かせてくれた。
そしてそのまま私の腕を滑ると、袂に隠れるように収まった。
「結ちゃん!暑い中悪かったね、ありがとう」
と、同時に暖簾を軽く上げて絹江さんが顔を出した。
「ごめんなさい、遅くなっちゃって…」
「いいのよ!酒屋の女将さん、忙しそうだったでしょ?」
「はい、バタバタしてたけど、親切に注文聞いてくれました!」
絹江さんは私の報告に目を細めると、ぱんっと手を叩く。
「あ、そうだ!結ちゃんにお客様が来てるのよ!」
「え…私に?」
「そうそう。何かこう…綺麗?違うか…厳か…うーーん…」
「え、えっと…??」
腕組みしたまま首を捻る絹江さん。
(だ、誰が来てるんだろう…??)
そんな彼女を見て、一抹の不安が過ぎる。
「どうも形容するのが難しいわね…まぁ、たぶん怪しい人じゃないわよ!美形だったし♪」
「え、えぇぇ…」
あっけらかんと笑いながら絹江さんは続ける。
「そうねぇ…なんだか薬売りさんと雰囲気が似てるかもね?」
「え?」
「お部屋で待っててもらっているからね。何かあったら大声出しなさい!」
きょとんとする私を尻目に、絹江さんは宿を出るお客さんの対応を始めた。
「……とりあえずお部屋に戻ろうか」
私は袂に隠れた天秤さんにそっと呟いて、そろそろと階段を上っていった。
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