番外章(四)
└十六
「…で、流されたはずなんです、鉄砲水に。でもさっき目を覚ましたのは元の崖で…」
『…………』
「…狐か狸にでも化かされたんでしょうか…?」
薬売りさんは私の話を、何も言わずに聞いてくれていた。
そして不意にその足を止める。
『…着きましたよ』
「え…ここは…」
薬売りさんの背中から見えたのは、須王くんが連れてきてくれた洞窟だった。
とは言っても、だいぶ崩れてしまっていて中に入らずとも、湧き水の池が見えている。
『…ここがどうして安産のご利益があるか、話してませんよね?』
「は、はい…」
薬売りさんは湧き水の方へ足を進めると、そのすぐ傍で私を下ろした。
「…すごい…赤紫の花…」
湧き水の周りには、あの時には無かった赤紫の花をたくさんつけた木があった。
『…遠い、遠い昔の話です。この辺りは水害が多くて、一人の姫巫女が水神の生贄となってそれを鎮めた…その数年後、静かだったこの川は急に鉄砲水を起こしたそうです。この辺の地形のせいなのか、それとも水神の怒りのせいなのか…その鉄砲水でここら一帯の村は一瞬にして川の底に沈みました』
「…え…っ」
薬売りさんは、木の肌をそっと撫でて続けた。
『…しかし、村が沈んでも村人全員が流された訳じゃなかったそうです。その集落で一番権力のあった家の人間が、残ったわずかな村人を励まし、もてる力の全てを尽くしてここで暮らしを立て直したそうですよ』
「……う…っ」
『その人間は生贄となった姫巫女の、子供だったという話ですよ。とてもお互いを思い合っていた母子だったそうです。確か…その名前を"須王"…村を立て直した後も、母を丁寧に弔い続けたそうです』
私の頬を涙が伝う。
それに答えるように赤紫の花が、ぽとりぽとりと湧き水に落ちて流れていく。
『不思議な力を持った少年で、その生涯は決して長くなかったけれど…皆に愛される人物だったそうです。そしてその生涯を終えた後、せめて没後は母子共に過ごせるように残った村人がここにこの木を植えたそうです』
「…この木を…?」
『…花蘇芳の木ですよ』
「はな…すおう…」
『それが…ここが母子の守り神として崇められる由来です。もっとも、大抵の人はさっき結が倒れていた所にある祠を尋ねるそうですが…やがて立て直した小さな村も、人がいなくなり…今ではその形も残していません』
翡翠色の流れに乗って、蘇芳の花がゆったりと流れていく。
それはまるで寄り添う、あの母子のようで私は涙が止まらなかった。
『…遠い遠い…結が生まれるよりもずっと昔のお話です』
そう言いながら、薬売りさんはそっと花蘇芳の枝を一房折った。
そして、竹筒に湧き水から少し水を汲んでそれを生ける。
『…こうしておくと、不思議なことに子が生まれるまで、花が枯れないそうです。お守りとは違いますが…これを女将にあげたらどうですか?』
私は無言のまま何度も頷いた。
薬売りさんは少しだけ笑うと、私の涙を拭いて竹筒をそっと握らせた。
――私は水を零さないように、慎重に竹筒を持った。
薬売りさんも私を背負いながら、少しだけゆっくりと山道を下る。
「…疲れませんか?」
『…何回同じ事を聞くんです?』
「う…だって…」
薬売りさんは呆れたように笑いながら、器用に山道を歩いた。
「…結局…私は夢でも見てたんでしょうか?」
『…そうですね、強いて言えば…この川の記憶を見たんでしょう』
「川の…記憶…」
私は手にしていた竹筒を覗き込んだ。
ゆらゆらと小さな波紋を作りながら、綺麗な光を放っている。
(そうか…)
時間を遡って、昔の人たちと話したりしたなんて…
俄かに信じがたいのも、正直少しある。
でも、もしかしたらこの川の色の理由を、須王くんと歌織さん…そして萩野さんの真実を私に教えてくれたのかもしれない。
何で私だったかは…わからないけど。
それでも、彼等と過ごした時間は紛れも無く本当のことだから…
「…そう言えば…最後に鉄砲水から助けてくれた大きな犬は誰だったんだろう…?」
『……っ』
私の何気無い呟きに、薬売りさんが足を止めた。
『…今、何て?』
「え…あ、そこまで話して無かったですよね。鉄砲水に流された時、大きな紅い犬…狼かな?私を助けてくれたんです」
『…………』
薬売りさんは足を止めたまま、辺りを睨み付けるように見回した。
『…でも匂いが…いや、水で消されたか…?』
「く、薬売りさん…?」
『………いえ、何も…さぁ、早く帰りましょう』
「…?はい……」
そして薬売りさんは再び歩き出す。
さっきよりも少し緊迫した雰囲気を纏って、歩く早さも上がったようだ。
(…どうしたんだろう?)
私はその理由がわからないまま、そして何となく薬売りさんに聞けないまま、彼の背中で口を噤むのだった。
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