番外章(四)
└十三
地鳴りを轟かせながら、私たちの目の前に翡翠色の水柱が立ち上がる。
周囲の人々は、誰もがそれを水神様と呼んで恐れおののいていた。
「す、須王くん…!」
ただ一人、彼だけはその水神に懐かしさの混じった表情を向けていた。
「母上…母上…!」
ふらふらとした足取りで、彼は崖先に進んでいく。
「須王さま!しっかりなさってください!」
萩野さんがしがみついて止めるも、彼の意識にまで届かず…
「母上…母上は…怒っているんでしょう?」
(…須王くん…)
須王くんは涙を流して、水神に語りかける。
「…酷い扱いを受けて、あんな風に流されて…」
萩野さんは地面に突っ伏して声を上げて泣き出してしまった。
私は一歩も動けないまま、信じがたいこの情景を見ているだけだ。
「…神通力も失くして…俺を生んだから…俺のせいで…!だから俺の事も何もかも忘れてしまったんでしょう?」
轟音を上げながら奮い立ち続ける水柱は、変わらず美しい翡翠色を保っていた。
「でも…!母上、今度は必ず傍にいるから…!俺も、俺もそっちに連れて行って!」
「……須王、くん!?」
「このまま…親父のような汚い大人になるのは嫌だ…!母上!俺もあの水の中の村へ連れて行って…!!」
悲鳴のように悲しい声で須王くんが叫ぶ。
そして大きく一歩、崖の方へと踏み出した。
「須王さま!!」
ぱぁんっ
一瞬、辺りの音が消えた。
須王くんを止めようと、足を踏み込んだ私より数秒早く、萩野さんが彼に駆け寄りその頬を叩いた。
「は、萩…野…」
「何を仰っているんです!すべて…すべてご説明しますから…!!」
呆然とする須王くんの両肩をしっかりと掴んで、萩野さんは唇を震わせた。
「…母君様は…歌織さまは、あなたを忘れてなどいません…!」
「え……」
「歌織さまは、あなたを産んでからご自分の力が無くなり、父君から疎まれるであろう事はすでに予想してました…そして、一番憂いていたのは須王さま、あなたの事です」
「きっと私が大人しく郷に下がれば一番いいのでしょうね…でも、そうしたら須王はどうなるかしら…」
「歌織さま…そのような事は…」
「いいえ、萩野。あの人ならやりかねないわ…須王を…せめてもう少し大きくなるまで…この家で守ってあげなくては。だってこの子は…私の人生の中で唯一の宝物だもの」
「…宝物?俺、が…」
目を丸くする須王くんに、萩野さんがゆっくりと頷く。
「歌織さまは、あなたと離れるのが何よりも辛く耐え難いと思っていたんです。だからあのように、気が触れた振りを…そうすれば、父君の性格上、世間体を気にしてすぐに郷には下がらせずとも、他人の目に触れない奥の宮に閉じ込めるだろうからと…」
「あ……そ、そんな…」
「…ご自分がどんな扱いをされようとも、須王さま、あなたの姿が見える所にいたいと願ったんです」
須王くんが萩野さんに縋るように膝をついた。
「…歌織さまはいつも須王さまがお持ちになるお花を大事に飾っておりました。そしてそれを見て、毎夜涙を流しておりました…」
「あ…ぁ…母上……!」
泣き崩れる須王くんを萩野さんは優しく撫でていく。
私にはそれが、まるで母子のようで…
見た事も無い、幼い須王くんと歌織さんの姿のようで胸がいっぱいだった。
そして、ふと目をやった先である事に気づく。
「…あれ…?」
さっきまでそこで轟音を轟かせていた水柱が、だんだんとその背丈を縮めていたのだ。
(…どうして…?)
妙な胸騒ぎを覚えながら、私は二人に視線を戻した。
「須王さま…もうひとつ、歌織さまがあなたを守りたかった理由があります」
「…え…」
萩野さんは顔を上げた須王くんの涙を、袖で拭いながらしっかりとした口調で告げた。
「先程"水の中の村"…と仰いましたね?」
「あ、あぁ…この川の源流が湧き出る場所で…いつもそこを覗くと、水中に村が見えた…きっとそこで母上は暮らしているんだろうと…」
戸惑いながら答える須王くんに、萩野さんは眉根を寄せる。
「…須王さま、あなたにも歌織様と同じ、先読みの力があります」
「な…!そんな…!」
「歌織さまはそれを父君に悟られるのを一番恐れていたんです。きっと幼いあなたは父君の良いように利用されてしまうから、と…」
(…そうか、だから私にはあの湧き水の中に何も見えなかったんだ…!)
つい数時間前の出来事が、ようやく納得できた。
彼だけにしか見る事のできない風景だったのだ。
「…ん?何か…」
そこで私はやっと気づく。
(音が聞こえない…)
二人の会話に聞き入っていたとは言え、さっきまで聞こえていた水音が消えているのだ。
いくら水柱が小さくなったからって、川の流れる音まで…?
「ちょ、ちょっと待って、萩野。それが本当なら…じゃあ俺が見ていた風景は…」
須王くんが頭を抱えて呟く。
「…水底の…村…!?」
その呟きに間髪いれず、周囲からどよめきが起こる。
そしてしゃがみ込んでいた人たちはわらわらと慌て始めた。
それと同時に、再び地鳴りのような低い音が辺りに響いた。
「て、鉄砲水だーーー!!!」
私たちは反射的に川上のほうを見た。
目に映ったのは、木々の合間を縫うように…
まるで怒り狂った龍の如く、うねり、飛沫を上げて迫る翡翠の水だった。
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