番外章(四)
└九
――ぴちゃん…っ
「…不思議な事に、母上が流れた後、この川は翡翠色に染まった。水害も…だんだんと納まってこうして静かな流れを保っている。そして俺はますます親父を憎んで…今じゃ日中の大半をここで過ごしてるって訳だ」
「…………」
「…結?」
言葉が、出なかった。
お母さんは…歌織さんはどんな気持ちで最後に須王くんの名前を呼んだんだろう。
そんな彼女を、須王くんはどんなに辛い思いでそれを…
「そんな顔するなよ」
「…だ、だって…」
須王くんは少しだけ笑うと、私の足を冷やしていた手ぬぐいを取った。
「ほら、もう痛くないだろう?」
「え…あ…本当だ…!」
足の痛みは不思議と消えていた。
そして須王くんは嬉しそうに続ける。
「ははっ!きっと結は母上に気に入られたんだな」
「…ふふ、そうかな、ありがとう」
私がそう言うと、彼は愛しそうに洞窟の奥を見つめた。
「…お家には…」
ふと浮かんだ疑問を口にすると、須王くんは「ん?」と言いながら視線を私に移す。
「お家には、帰ってないの?」
私の言葉に、一瞬彼の頬がぴくっと動いた。
そしてその瞳から温もりが消えていく。
「一応…帰ってるよ。まだ萩野がいるし」
「そう、なんだ」
「…まぁ、親父は俺の顔も見たくないだろうし、俺も親父とあの女の顔なんか見たくもないけど」
「え?あの女?」
須王くんはフンッと鼻で笑うと、眉間にしわを寄せた。
「…親父はすぐに後妻を娶ったんだよ。俺と大して歳の変わらない若い女だ」
「その人の事もよく思ってないの?」
「…血が繋がって無いとは言え、息子にあたる俺に色目を使ってくるような女だぞ?」
「え……」
蔑むような視線に、ゾクリと寒気が走る。
戸惑う私を見て、須王くんは慌てて表情を崩した。
「そうだ、こっち来てみろよ」
「あ、う、うん」
そう言って彼は奥の湧き水の池のほうへ私を促す。
だいぶ痛みが無くなった足を、ひょこひょことさせながら私は須王くんとそこを覗き込んだ。
「母上が亡くなってから、偶然ここを見つけたんだ。不思議と他の奴らはここの事を知らないみたいだったから…それに…」
ほら、と須王くんが湧き水を指差す。
「見えるだろう?この水の底には村があるんだ…!」
「え………っ」
「きっと母上は水神様に守られながら、この水底の村で暮らしているんだよ。きっとあの家にいた頃よりずっと幸せに…」
「…須王くん…」
須王くんは少し寂しげに笑うと、そっと手を湧き水につけた。
「…いつか…親父やあの女のように汚い大人になる前に…俺も"そっち"に行くからね、母上…」
幼い子供のように膝を抱え、指先を水に戯れさせる須王くん。
私はそんな彼にかける言葉が見つからなかった。
「…………」
―だって…
私にはそんな村は見えなくて、ただ翡翠色の水が揺らめいているだけだったから…
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