第五章
└二十四
『…私の話はこれでお終い。…ちなみに…その男の名は、清四郎。今際の際まで…弥生さん、あなたの名前を呼んでいた』
薬売りは、そう言うと懐から簪を取り出した。
決して高価なものではないが、可愛らしい牡丹の飾りがついている。
呆然と座り込む弥生に簪を差し出す。
しかし弥生は俯いたまま、簪に見向きもしなかった。
「……よ…」
『…………』
「嘘よ!!!」
『!!』
がばっ
『……ちっ』
襲いかかるように弥生の手が薬売りの着物を掴もうとした。
寸での所で避けた薬売りは、忌々しげに舌打ちする。
「そんな話嘘よ!清四郎さんは…清四郎さんは帰ってくるわ!」
怒り狂う弥生の瞳は、紫色に焔立ち痛々しいほどに濡れていた。
「清四郎さんは待って居てって言ったのよ!約束したの!そんな嘘を並べたって…私は待ち続けるわ!」
『…落ち着け』
「待つの!待つのよ!例えこの身を再びモノノ怪に堕とそうとも…男を喰らう恐ろしい化け物に戻ろうとも!!」
弥生が手を振りかざすと、薬売りに向かって大量の白い糸が仕向けられた。
『……斬る』
足下から這い登ってくる蜘蛛達を払いながら、薬売りは退魔の剣に手を掛けた。
『―!何…!?』
しかし、まだ退魔の剣は抜けない。
(まだ…足らないか…!)
目の前にまで迫る蜘蛛の糸に、応戦しようと構えた瞬間…
「…やめろ!もうやめろー!!!」
弥勒の叫び声に、弥生は一瞬ひるんだ。
「…もう止めろよ、本当は気付いてたんだろう?」
「……っ」
「本当は、もう清四郎さんが帰ってこないかも知れないって…わかってたんだろ?」
弥生は弥勒を呆然と見つめた。
段々と弥勒を締め付けていた糸の力が弱まり、薬売りの足下にいた蜘蛛達が退き始めた。
弥勒は緩んだ糸を静かに解くと、スッと花壇を指さす。
「…文を書いても届かない気がしてた…だからお前は牡丹の花に、文を結んだんだろ?」
そう言いながら、弥勒はごそごそと紙屑を差し出した。
「これ…」
思い掛けない弥勒の行動に、弥生は目を丸くした。
「…土に埋もれてしまえばと…」
唇を噛みながら俯く弥生の手に、弥勒はそっとその紙を乗せた。
「…無くなってしまってもいいなら、最初から書かないんじゃないのか?」
弥勒は薬売りの手から簪を受け取ると、それも一緒に弥生に握らせた。
「帰って来たじゃないか、清四郎さん…」
弥生は掌に乗せられたそれをジッと見る。
自分の小さな手では零してしまいそうな程、たくさんの文の欠片。
筆を走らせ、思いをしたためては牡丹の茎に結んだ。
そうしていれば、清四郎に届く気がしたから。
そうしていれば、清四郎に届かない事実を認めなくて済んだから…
「…貴方達は…本当に非道い人たちね…」
弥生はフラフラと、牡丹の花達に歩み寄っていく。
「待っているのが辛いんじゃないわ…待つことの何が怖いの?…本当に怖いのは…もう待たなくていいと言われる事よ…」
がくんっと脱力するように、弥生が座り込む。
そして凜と聳え立つ牡丹達を仰ぎ見た。
「う…あ、あぁ…清四郎さ……っうわぁぁぁぁあああ!!」
泣き崩れる弥生を、二人はただ見ているしか出来なかった。
簪に落ちる弥生の涙が、まるで宝石のようで悲しいほどに美しく見えた。
――かちーーーんっ
『…!』
その時、薬売りの手元で退魔の剣が大きく口を開けた。
弥勒は不安そうな目で薬売りを振り返る。
しかし、薬売りは何も言わずただ首を横に振った。
『…一途に待ち続け、想い続けた悲しきモノノ怪…お前の真と理をもって』
薬売りの言葉に反応するように、退魔の剣は空に浮いた。
『剣を解き、放つ』
離された指先と共に、目映い光が剣から零れ出た。
"解キ、放ァァァァァァァツ"
終幕へ続く
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