第五章
└十四
部屋に続く階段を上りながら、私はもう一度自分の顔を手拭いで拭いた。
(…もう汚れてないよね?)
私は、こほんっと小さく咳払いをしてから襖に手をかけた。
「…薬売りさん」
そっと襖を開けると、薬売りさんの青い着物が目に飛び込む。
薬売りさんは、ゆっくりと私の方を見た。
『…お帰り』
「た、ただいま…」
いつもは自分が掛けてる言葉を薬売りさんに言われて、胸がキュッと詰まる。
私は部屋に入ると、無言のまま絹江さんの用意してくれた夕餉の卓についた。
『…ふっ』
「?」
『…話したいこと、たくさんあるんじゃないですか?』
薬売りさんは私を見ながらクスクス笑った。
『…どうだったんです?初仕事は』
そう言うと、頬杖をついて優しい顔で私を見る。
「……っあ、あの…」
私はどきんどきんと高鳴る胸を抑えながら、今日の出来事をゆっくりと話す。
時々興奮しながら身振り手振りで話す私の話を、薬売りさんはただ頷いて聞いてくれた。
初めてのお仕事。
薬売りさんと離れて、知らない人との交流。
不安と、期待と、緊張と…
少しでも、薬売りさんに伝えたくて、出来れば余すことなく伝えたくて。
私は一生懸命に薬売りさんに話した。
「私、牡丹の花って初めて見たけど…すっごく綺麗なんですね!」
まだ興奮気味に話を続ける私を見て、薬売りさんは小さく笑った。
そして、頬杖をついたままお酒を一口キュッと飲んだ。
『…良かったですね』
「…はい!」
『雇い主はいい人でしたか?』
「はい!すごく美人なんですよ!」
薬売りさんは、ほぉっと声を漏らすと片眉を上げた。
あからさまな反応に、ちょっとだけムッとするも、弥生さんの可憐な立ち振る舞いを思い出して私は妙に納得してしまった。
「すごく気品がある人なんですよ、でも気取ってなくて…」
『ほぉ…それは粋な…』
薬売りさんはそう言うと、おもむろに立ち上がる。
そしてぐっと私の首元に手を伸ばした。
「え、くす……ぐうぇっ」
『…もう終わりましたか?話は』
何を考えているのか、薬売りさんは私の首に腕を回すと、背中から羽交い絞めにした。
「ぐ…苦し…っ」
勢いに負けて畳に倒れこむ。
それでも薬売りさんの腕が緩むことは無かった。
『……やっと帰ってきたと思ったら…顔を見せる前に風呂ですか。偉くなったもんですね』
「それは…汚れてたから…うっ」
『で、部屋に来たと思ったら、雇い主を思い出してうっとりしてるんだから、救いようが無いですね』
「えっ、だって弥生さんは女の人…」
『口答えが多い』
「く…っ!!薬、売りさん…っ!!息が…っ」
悶える私を鼻で笑うと、少しだけ力を緩めた。
そして、そのまま私の髪に顔を埋める。
「……っ」
『…あと二日ですか』
「は、はい…」
絞められていた腕は、いつの間にか柔らかく巻き付いていた。
そして溜息を吐きながら、ポツリと呟く。
『……待つのは性に合いません』
…なんと。
自分は散々私を置いて夜遊びしてたと言うのに。
「じ、自分勝手ですね…」
『ふ…っ今更』
(…待っててくれたのかな)
「あ、あの薬売りさん」
『…はい?』
「私、仕事頑張ります。ちゃんと心配掛けた分、一生懸命働きます」
薬売りさんは少しだけ笑うと、当然ですよ、と消え入るような声で言った。
四ノ幕へ続く
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