第一章
└八
― 三ノ幕 ―
「いらっしゃい」
暮れ始める日の中、ひっそりと佇む店の戸を開ける。
玉暖簾を片手であげると、中から落ち着いた女の声が聞こえた。
『…お銚子と何かおすすめの物を』
薬売りは女にそう告げると、端の席に腰掛けた。
店内は誰もおらず、客は薬売りだけだ。
女はにっこりと笑うと、奥に引っ込んだ。
やがて醤油のような、甘辛い香りが鼻をくすぐる。
「おまちどうさま」
女は薬売りにお猪口を促すと、慣れた手つきで熱燗を注いでいく。
『…良い香りですね』
薬売りは酒をグッと飲み干すと、女に柔らかい笑みを向ける。
女は嬉しそうに笑うと、再び酒を注いだ。
「私ね、亡くなった主人に煮物だけは上手いって言われたのよ」
『…ご主人は…?』
薬売りの問いかけに、女は少しだけ笑うと小さく首を振って
「もう…六年ほど前に」
そう答えるとスッと髪を直す仕草をした。
涼しげな目元の凜とした美人。
控えめな藍染めの着物が、その美しさを余計に引き立たせている。
「主人と一緒になったころにね、私、何もできなくてさ」
当時を思い出したかのように、懐かしそうに目を細める。
「この店も、ほとんど主人1人で切り盛りしてたのよ」
『…では、この店はご主人の?』
「そう。主人の店。…私はお客の相手も最初は苦手でね。たまに酔っぱらい相手に喧嘩したりもしたわ…今思えばあの人の役に立てた事なんて本当一握り。でもね、煮物だけは良い味が出てるって褒めてくれたのよ…口数の少ない人だったけど…優しい人だったわ」
薬売りは黙って彼女にお猪口を差し出す。
女は頂きます、と呟くとクッと飲み干した。
『ご主人も絶賛の煮物…楽しみですね』
やがて女が小鉢を薬売りに差し出した。
出汁の香りと醤油の香りが何とも言えず食欲をそそる。
薬売りは煮物を一つ口に運ぶと、にこりと笑ってお銚子の追加を頼んだ。
『…こんなにおいしい煮物は初めてです』
「ふふ、お上手ね」
『ときに女将、お名前は?』
「私?珠子(たまこ)よ…主人はおたまって…」
珠子はまた懐かしそうに目を細めた。
『こんなに美しい妻とお店を残して…ご主人も無念だったでしょう』
薬売りの言葉に珠子は悲しそうに微笑んだ。
「そうね…でも、私には本当に本当に幸せな時間だったわ…」
そう言って珠子はふと髪留めに触れる。
愛おしそうに愛おしそうに指先で撫でながら…
『…綺麗な髪留めですね』
「えぇ、特別なの」
にこりと笑う珠子に薬売りが続けた。
『珠子さん…女性の間で流行っているのですか?その紅玉』
ふ、っと珠子が息を飲んだ。
しかし、次の瞬間にはまたにこりと笑って
「綺麗な物が嫌いな女性なんて、いないわ」
そう答えた。
「あぁでも…」
『…?』
「あまり紅い髪飾りはおすすめしないわ」
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