番外章(二)
└三
それからは散々だったわー。
部屋からも風呂からも、聞こえてくるのはあの坊ちゃんと可愛らしい小姓さん達の嬌声。
「…気持ち悪…」
「こら!」
顔を歪める度に女将さんに拳骨くらったっけ。
まぁ、私もそれなりに理解はしているつもりだったわよ?
世の中色んな人がいるって、この宿屋で働くようになってから目の当たりにしてきたから。
それでも、まだ少女に近い歳だった私には衝撃的だったのよ。
(あの美少年達だって…もっと相手を選べばいいものを…)
世話しなくていいのはありがたいんだけど、何だか胸悪い気分でさ。
夜、暗くなった廊下を歩いて自分の部屋に戻ろうとした時。
「…ん?」
暗い裏庭から、何やら変な音がしてたの。
しゃーっしゃーってね。
そっと近寄ってみたら、井戸の近くで人影。
「…っ!あんた…」
そこにいたのは、坊ちゃんお付の料理人だった。
「…なんだ、仲居さんか」
しゃがんだまま少しだけ振り返ると、すぐにまた手元に目線を戻した。
「…何…してんのよ、こんな暗い所で」
何だか薄ら寒い雰囲気に少しだけ飲み込まれそうになりながら、私はそのまま縁側に座ったの。
変わらず料理人の手は動いて、しゃっしゃっと音を立ててた。
「…包丁だよ」
「え?」
「包丁、砥いでる」
そう言いながら料理人がスッと包丁をかざして見せるとね。
「…っ!」
月明かりにギラリと反射した磨かれた切っ先と、料理人の目が異様に迫力があってさ。
思わず唾を飲み込んじゃった。
「…別にあんたを切ろうってんじゃないよ」
「な…何よ、そんな事言ってないじゃない!」
料理人はふっと鼻で笑うと、砥ぎ終えた包丁を一つ一つ手にして説明しだしたの。
「これは柳刃。薄造りなんかを切るのに使う」
「あ、お魚ね!」
「そう。で、こっちは出刃。これがあれば大きな鰹だって鱒だって簡単に捌ける。それでこっちが牛刀で…」
「へぇ…」
…不思議な事にね。
あんなに人を寄せ付けないような、無関心なような冷たい目をしてた料理人がさ。
楽しそうに話すのよ。
おかしいでしょ?
でも、何だかいきいきしててね。
私にはこっちがこの人の本当の顔なんじゃないかって思えてさ。
「…あんた料理好きなんだね」
「え?」
「さっきと全く違うよ、顔が」
私が笑いながら指差すと、罰が悪そうに顔なんか染めるもんだから…
(な、何よ…!)
こっちまでくすぐったくってさ。
「あ、ね、ねぇ!じゃあ今砥いでるのは?」
「え?」
照れ隠しに料理人の手元の包丁を指差したの。
それは少し小振りの包丁でね。
「これは…」
「さっきから一番念入りに砥いでるじゃない?」
「…………」
そしたらその料理人の表情から、スッと色が消えたの。
「…ど、どうし…」
「これは…」
そして、まっすぐ私を見て
「これが切るものは、ずっと前から決まっている」
そう一言だけ答えたわ。
「…………」
言葉に詰まっている私を見て、料理人は小さく笑った。
「もう夜も遅いし、部屋に戻ったら?」
「あ…う、うん…」
私は言われるがままに、縁側からよろけながら立ち上がった。
「おっと…」
よろける私を支えるように、手を差し伸べると料理人が笑う。
「あはは、大丈夫かよ、絹江さん?」
「え…名前…」
「ん?さっき女将がそう言ってただろ?」
なんだ…
無関心な様子の割にはきちんと聞いてたんじゃない…
「あ、ありがと!あんたも早く寝たら?」
何だか急に恥ずかしくなっちゃってね。
熱くなる頬を隠しながら、料理人の手を振り払ったの。
私もね、まだ初心だったのよ、その頃はさ!
「…庄造」
「え?」
「あんたじゃなくて庄造だ」
(あ、あらら…)
…私以上に初心な奴がもう一人…
「…庄造、顔、真っ赤よ?」
「ば…っ!つーか呼び捨てかよ!」
そうして、夜になると包丁の手入れをする庄造と私は取り留めの無い話をしながら過ごすようになったの。
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