白くじらと群青 | ナノ


空に浮かんだくじらを懐かしく感じたのは、いつか似たものを見たからだろう。そうだ、ほんの二年前のことじゃないか。
群青に溶けた雲と、少し強い春の風。消えたくじらを悼むように桜がひらりと舞っていた。けれどそれは緩やかに降下して視界からなくなり、窓枠から地面へ、ゆっくり目線を下げる。黒いコンクリートに散る薄桃色の花びらは、確かにそこにあり、やっぱりくじらだけがいなくなっていた。

「シマ」

パタン、と手にしていた本を閉じると思いの外音が響き、自分でびっくりして肩を揺らしてしまった。それと同時に、くすりと小さな笑い声が鼓膜を揺らす。視線を窓の向こうから室内へ戻すと人の視線とぶつかった。

「あ、高瀬」

「一人で何してんの」

「読書?」

「なんで疑問系」

くつくつと喉をならしながら近づいてきた高瀬は、俺の向かいの椅子に腰かけて足元へぼとりと鞄を落とした。きちんとセットされた髪が、けれど一日の疲労に少々くたびれて、吹き込む風に揺れた。

「高瀬、帰らないの」

高瀬朔人は、不思議な人だ。

形をころころ変える雲とも違うけれど、それに近いとにかく不思議な存在だ。高校三年の今、一度も同じクラスになったことの無い俺を気まぐれに“シマ”と呼ぶ。いつも華やかなグループの輪に居て、そんな友人関係の中に居るのに、何故か俺と同じお世辞にも華やかとは言えない図書委員をやっている。

「嶋岡は」

「俺は当番だから」

「誰もいねーじゃん」

「そうだね、貸し切り」

高瀬は掴めない人だ。

こうして距離を詰めた喋り方をしてくれるのに、ここ以外…図書室以外…では目も合わない。クラスが違い合同の授業でも一緒にならない。必然的にそうなるのだけれど、俺は何故か高瀬を見つけるのが上手くて、ぱっと視線を向けてしまうのだ。ただそれが交わることはなく、いつも行き場をなくしてその場に取り残される。

「寒くねーの」

俺は高瀬を友達と呼んで良いのか分からないし、高瀬が俺を何だと思っているのかも分からない。

「平気」

「そ」

高瀬が口をつぐむと、独特の本の匂いが充満したそこに、しんと沈黙が生まれた。
俺は“当番”と言いつつ、カウンターを離れて窓際の席で空を眺めていて。きっと高瀬は暇そうだなと思って声をかけてくれたのだろう。うちの学校の図書室は、寂れているけれどわりと広い。広さに比例して内容も充実している。俺はここが好きだし、好きで図書委員なんてものをやっているし、なんなら図書委員長という肩書きも喜んで受け取った。そんな好きなものに囲まれているのだから、暇、とは少し違う。それを、高瀬は分かっているんだろうか。

「シマ」

「なに」

「口、開けて」

「え?」

「ほら、あー」

脈絡もなく、高瀬は口を開かせようと自ら口を開いて指でその唇をとんとんと叩いた。なんだと思いながらも、急かされ反射的に口を開けてしまった。そこへ、ぽいっと放り込まれたのは甘い塊だった。

「桜味だって」

「……」

「あんまり美味くないだろ」

処理係じゃんと言って笑ったら、予想外に高瀬もけらけらと笑って俺の頭に手を置いた。撫でる、なんて可愛いものではなかったけれど、軽く頭を揺らされて不覚にもどきりとした。

「美味しいよ」

「良かった」

それから高瀬は鞄を持ち上げて「気を付けて帰れよ」と言い残して出ていった。一人きりの図書室は本当に静かで、本に囲まれた空間は俺を落ち着かせた。
昔から、とにかく読書が好きでたくさんの本を読んだ。それが根暗だと言われる要素の一つだと気づいた中学二年の春、学校生活の中では出来るだけ避けるようにしようと試みた。普通に友人も欲しかったし、遊びに出掛けたりゲームをするのも好きだったから。その傍らでこっそりする読書も良いけれど、こういう空間でどっぷり本の世界に浸るのはやっぱり心地良い。

そんなことを考えながらさっき閉じた手元の本をもう一度開く。パステルグリーンの見返しを撫でると、指先にざらついた感触が残った。

そのざらつきみたいな不思議な感覚が、久しぶりに顔をあわせたことで甦った気がした。あの春から二年と数ヶ月、高瀬朔人はまるで昨日ぶりだねと言うように目を細めて俺の肩に手を置いた。

「久しぶり」

「あ、うん…卒業以来、かな」

「だな。シマ、大学こっちなの?」

地元から電車で一時間半。遠いと言えば遠いけれど、一人で頑張ると決意するほどの距離ではない。田舎から少し都会へ出るというだけ。高瀬の“こっち”とは、まさに今居るこの地のことだろう。


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