こんなに近くで高瀬の顔って見たことないな、とか、眉毛の形綺麗だしまつ毛も長いなとか、そんな感想を述べる余裕もないまま俺はベッドから飛び降りた。
「ごごめん、高瀬、俺…」
「やべ、寝ちまってた」
「いや、俺が掴んでたから、だよね、ごめん」
「いやいいって。俺もそのまま寝ちゃったし…」
「…俺、シャワー浴びてくる」
別に、男同士じゃん。何も恥ずかしくないし、あわてることもないのに…俺は逃げるように着替えを掴んでお風呂に駆け込んだ。洗面所に仲良く並んだ歯ブラシも、毎朝きちんと交換する洗面台のタオルも、今はその生活臭が無性に胸をざわつかせる。そう言えば、俺自分でズホン変えたんだっけ…確か途中で眠くなって…でも寝る時用のハーフパンツになってるし…
出たらもう一回謝ろう。
そう決めて、動揺を落ち着かせるためにも少し冷ためのシャワーにした。
「あれ…」
シャワーを終えてリビングに戻ると、高瀬がホットサンドを作っていた。食パンとチーズやハムを挟んでプレスするだけで出来るホットサンドメーカーとやらで。去年のバイトの忘年会で何故か帰りに店長が俺に買ってくれたそれは、自分で一度も使ったことがない。ここへきて、高瀬が数回使っただけのものだ。けれど気になったのはそこではなく、テーブルに置かれている腕時計だった。
「食べるだろ?あ、それジーパンのポケット入ってた」
「…これ、俺のじゃないよ」
自分の持っている腕時計くらいちゃんと把握している。確かに自分のではない。もしかして昨日酔っていたから適当に持って帰ってきてしまったんだろうか。一物の不安を抱えつつそれをよく見ると、どことなく見覚えがあり、すぐに誰のものか見当がついた。
「あ、上原のかも」
「上原もいたんだ」
「うん、でもいつ入れたんだろ…全然覚えてないなあ…」
そんなに酔っぱらっていたのか、恥ずかしい。その流れでもう一度高瀬に謝ると気にしてないからと食べなよと言う返事が返ってきて、俺は大人しく出されたホットサンドを口に押し込んだ。さっき感じた恥ずかしさや胸のざわつきはなんだったのか、結局考えるのを先延ばしにして、後で上原に電話しようと考えた。
「今でも仲良いんだ」
「んー、そうだね、」
「引っ越したってことと話した?」
「うん。あ、言わない方がよかった?俺普通に高瀬とルームシェアしてるって言っちゃった」
「いや、いいよ。上原何も言ってなかったかなって」
「あー、ちょっと怒ってたかも。何で教えてくんないのって」
でも頻繁に会ってるわけじゃないから仕方ないよねと、昨日上原に言ったのと同じことを呟いた。すると、高瀬から意外な答えが返ってきた。
「それ、黙ってたことに怒ってたんじゃなくて、相手が俺ってことにムカついたんじゃないの」
「へ?なんで」
上原は高瀬のこと「さく」と呼んでいたし、てっきり交流があるのかと思って何も言わなかったけど。もしかしてすごく仲が悪い、とか…二人は一年の時同じクラスで、それなりにつるんでいたはずで、それは上原から聞いたことだから別に疑うこともしなかった。
「俺、すげー牽制されてたし」
「高瀬が上原に?」
「うん」
「何で」と聞こうとした俺を遮るように、自分の携帯が鳴り響いた。相手は上原で、時計のことかと言う僕の問いにそうそうと笑いながら答えた。いつの間にシマのポケット入ってたんだろう、と上原も覚えていないあたり、やっぱり俺が適当に突っ込んでしまったんだろう。近く空いている日に返すから会おうと言う約束をして電話を切った。
「やっぱり上原のだった」
「そう、じゃあ今でも俺、牽制されてんだな」
「へ、」
「悪い、俺そろそろいくわ」
「バイト夕方じゃなかった?」
「大学ちょっと行ってくる。そのままバイトも行くわ」
「分かった。いってらっしゃい」
「いってきます」
最初はどこか痒かったやりとりが、今こんなにナチュラルにできるなんて…もしかしてそれが普通ではないのかもしれないと、一緒に寝たことで気づいたんだろうか…
食器は洗っとくから流しに置いといてと言えば素直に「ありがとう」と返ってくる。あれ、俺たちってただのルームメイトだよな、うん…なにがおかしいんだろう。考えてもわからないかと、そのまま近くにあった本に手を伸ばした。高瀬が読んでいる途中だったのか、本屋さんでもらったらしいしおりが真ん中あたりに挟まっていた。俺の持ち込んだ本で、自分の部屋だけじゃなく、懸念していた通りリビングにまでなだれ込んだ本は綺麗に本棚に収納されている。
「はくげい…」
白鯨という題の、懐かしいあの本だ。高瀬と再会した夜に見た夢に出てきて、結局俺もあれから一度読み直した。
橋本が息を切らして自転車をこぐ。彼の生い立ちやいろんなことが、その途中で走馬灯のように回想される。そして最後は橋本が自転車を降り、自分が犯したことへの償いか、それとも自分が信じるべき正義への忠誠か、報復か、はっきりとした描写のないまま「橋本は空のくじらになる、“僕は僕の正義の為に”」という一文で終わる。自殺したのか、憎んでいた人を殺めたのか、どちらともとれる結末が、俺は嫌だなと思った。
高瀬が読み終わったら感想を聞こうと決めて、自分もバイトに行く準備をした。
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