08
清潔感があって柔らかく、時折ふっと甘い匂いが香る。心地好いそれはずっと嗅いでいたくなるような、そのまま眠りにつきたくなるような、好きな人の匂い。
それを遮るように体を揺すられて目を開けた。
「ほら、虎。起きて」
匂いを振り撒く張本人だ。予想した、愛しい人の姿。どうしてか、これはいつかと同じ光景だと感じた。
「用意しないと」
「……用意?」
「うん、ほら、浴衣着よう」
ああ、そうか。
今日は町内の花火大会だった。規模の小さな、ほんの十数分の花火が夜空を彩る。それに行くのは、ここ何年も二人の中で恒例になっている。まだ霞む視界の中、俺はぼんやりと、そんなことを思い出した。
そして、意識はクリアになる。
「……蓮」
これは夢じゃないだろうかと、情けなく不安になって蓮に手をのばした。そうだ、こんな夢を見たことがあるからだ。蓮に拒絶された時だ。全く同じはじまり。デジャヴではないか。
これがまた蓮の消えてしまう夢なら、無理矢理にでも覚めなければ。自分が耐えられない。
「っ、虎?どうかした?」
指が触れたのは、蓮のシャツ。腰の辺りだった。さらに手をのばし、脇腹を通って腹へたどり着き、自分へと引き寄せた。
「虎?」
後退して俺の横たわるベッドに腰を下ろしていた蓮は、不思議そうにこちらを覗き込んだ。そして、ん?と小さく首を傾げる。なにも言わないでそっと腹を撫でた俺の手に、蓮の手が重ねられる。
エアコンの効いた部屋は涼しく、けれど蓮の手は温かい。いつもと変わらないそれに安堵の息が漏れた。
上半身を起こし、そのまま蓮に両腕を巻き付け蓮を後ろから抱き締める。肩口に顎を預けた俺の手をかわらず撫でる蓮は、くすぐったいと言って肩を竦めた。
「…急がないと始まっちゃうよ」
窓から見える外は、あの夢のようにオレンジ色ではなかった。青い空が夜に侵食されはじめ、薄い紺色を広げているだけ。
「んん」
ぎゅっと力を込めてから腕を解き、言われるまま服を脱いだ。
「紺色と灰色、どっちがいいかな?」
二つの布を交互に見て、俺を見て、蓮は楽しげに笑う。どちらも変わらないのに。…いや、俺が着ない方を蓮が着るのなら、そう考えて見てみると、自ずと答えは出て。
「グレー」
「こっちがいい?じゃあ灰色にしよっか」
グレーと紺、夢と同じ選択肢だ。でも、色合いが全然違う。俺が指差したグレーのそれは白の方が強くて、もう片方の紺は本当にベーシックな紺色。ストライプ柄でもない。
「はい、手広げて」
違うところを探してばかりで、少しもったいない気がした。この温かさは夢じゃないと確信して、今の蓮を見たいのに、と。
その間にも蓮は器用に浴衣を着付けていく。
毎年この日だけ着る浴衣は、相変わらず窮屈だ。けれど少しは慣れたし、今年は初めての色だ。それは毎年蓮が白っぽく、俺が黒っぽいものを着るからで、だからこそ自らこちらを選んだ。
濃いグレーの帯をしめられ、ぐっと息が詰まる。
「完成。はい、座って」
蓮の指が、そっと髪を撫でた。
ああ、そろそろ切らないと。もっとも、切るのは蓮なのだけど。
「ん、おしまい」
首を隠していた襟足の髪を一つに結われ、一気に涼しくなった気がした。
それから蓮は相変わらず手際よく、自分も浴衣を着た。本当に手際がいい。濃い色のそれは、ぐっと蓮の誠実さと真面目さを倍増させ、そして艶やかにした。引き締まり、隙などないようで、けれど色っぽさを残しているのだ。いつもと雰囲気の違うその姿に、どくんと胸が高鳴るのがわかった。
「よし」
胸元の合わせも、項の余裕も、ちょうどいい。
「行こう」
エアコンを消し、蓮は俺の手を引いて部屋を出た。
躓いて転げ落ちないよう気を付けて階段を降り、リビングに顔を出せば、珍しく佳乃が帰っていた。けれどまたすぐに出掛けていくのか、大きなスーツケースと上着がソファーの横で待機している。
「あら、あらあらあら。いやね、色っぽいわね〜」
「花火大会、いってきます」
「はーい、いってらっしゃい…あ!待って待って!!」
「はい?」
「ちょっとそこ並んで。ほら早く」
佳乃は乱暴に俺の腕を掴み、蓮の横へ誘導した。そしてズボンのポケットから出した携帯をを俺たちに向け「はい、笑って〜」と、楽しそうに笑った。
写真を撮られるのだと気づいた瞬間にカシャリとシャッター音が響き、無表情だったろうなと軽く顎を触る。けれど予想に反して佳乃は何も言わず満足げに微笑んだ。あとになってその写真は俺と蓮に送りつけられ、リビングの写真たてに飾られ、佳乃の携帯とパソコンの待受画面に設定されることになる。
そのときは乱用されるなど思っておらず、急ごうと繋がれた蓮の手を握り返すことに夢中だった。
サイズのあっていない下駄に無理矢理足を突っ込み、通り慣れた道を行く。ドン、ドン、と小さく響く祭りの音が近くなる。
「虎、なに食べたい?」
しっかりと手を握り、上機嫌に笑って俺を見上げる蓮に、ああ、毎年見る光景だと改めて思い出す。
「ベビーカステラと、綿菓子と…」
「林檎飴」
その単語に足が止まった。
「虎?」
「……ああ、食べたい」
生暖かい空気に包まれ、独特の匂いが鼻腔を擽り、街灯と提灯の鮮やかな光が目を眩ませる。リアルだ、こんなにもリアルな夢は、ないだろう。
「正解、だね。行こう」
薄暗い視界で、はっきりと捉えることの出来る姿。確かな手の感触が、俺を誘導する。夢じゃない。
「ん、」
屋台の並ぶ場所に辿り着き、すぐに蓮は林檎飴の屋台を探した。人混み、という程ではないがそれなりに窮屈な道、手は離れなかった。誰かに見られているかもしれないなんて考えもしなかった。別に、見られても構わないし、本気で人の目など気にならなかったのだ。
蓮は真っ赤な林檎が並ぶ屋台で立ち止まり、どれがいいだろうかと一つ一つ眺めていった。どれも赤く丸い、飴をコーティングしたりんごだ。どれも同じなのに、けれど、その光景が酷く可愛らしくて無意識に口元が緩んでしまった。
「じゃあ、これで」
紺色の浴衣に林檎飴は良く映えた。
代金を払うために離れた手が妙に恋しく、けれど次の瞬間にはその優美さに見とれていた。
「はい、どうぞ」
「っ、ああ、ありがとう」
差し出されたそれを受け取り、再び手が繋がれる。
そろそろ花火が始まるだろうかと歩き出した蓮に続き、艶めく林檎飴を口に含んだ。温度にやられ、ねとりとした表面。それでもちゃんと食感は残され、甘さに口内は歓喜した。
「美味しい?」
「んん」
「そ、良かった」
ふわり、微笑んだ蓮の背後で、ひゅるひゅると光が細く上った。
ドン、と祭りの音楽の何十倍もの振動をその場に与えたそれは、一つ間をおいて、大輪を咲かせた。
始まっちゃった、と目を見開いた蓮は、慌てて空を見上げる。
誰もが空を仰ぐ中、俺は蓮の横顔を見つめていて。色とりどりの花火に照らされ、本当に、ただただ美しいと思っていた。
「あ、ね、今…」
「、」
「どうしたの?」
ゆらりと傾いた蓮の頭。
不意に絡まった視線を解くことが出来なくて、俺はそっとその額に唇を押し当てた。じわりと温度をあげたそこから離れると、蓮は慌てて俯き、俺の手ごと林檎飴を引き寄せた。
遠慮がちに一口それを含み、赤い舌をチラリと覗かせて「甘いね」と呟く。
ほんのりと赤く染まった頬が、緩やかに綻んだ。ドンドンと、花火は絶え間なく夏の夜空を彩り、小さな花火大会と言えどそれを見上げる人は皆夢中で。
毎年来ていれば飽きてしまうような、本当に小さな規模でも、それは変わらない。
一旦光が無くなり、提供のアナウンスがかかる。ふっと暗闇に包まれて、俺は繋ぐ手に力を込めた。
「……虎」
「ん…?」
ぎゅっと、蓮の手にも力が入る。
汗ばんだそこはじっとりと心地悪く、それでも離れることを嫌がる。
再び視線は絡まり、どくりと心臓が跳ねる。
それから、雑踏に消されてしまいそうな蓮の声が、けれどはっきりと鼓膜を揺らした。
「もう一回」
滑り落ちそうになった林檎飴の棒をしっかりと握り直し、額と額を軽くぶつけた。
堪らない。
心臓がうるさい。
雑踏なんて、もう聞こえない。蓮しか見えない。
目頭が熱い。
泣きそうなのかもしれない。
でも分からなくて、一つ息をつく。そして催促するように、蓮は繋ぐ手とは逆の手を、俺の頬に添えた。温かい手だ。
促されるままゆっくりと額を離し、唇を寄せる。
柔らかな、確かな、感触。
背後で、アナウンスが消えて再び花火が打ち上げられる音が響いた。
胸から溢れた何かは、俺が渇望していたものなんだろう。今はそれにこんなにも、溢れるほど、満たされているのだと気づく。
数秒の触れるだけの接吻。
唇を離し、息を整える。
目の前には、ちゃんと蓮がいて。
蓮の匂いも、りんご飴の匂いも、空を飾る花も、暗闇に浮かぶ蓮の妖艶な顔も、目の前にある。蓮の“もう一回”という声と、伏せられた瞼から伸びる睫、あの夢と同じ、脳に焼き付く。
でも、何もかも、消えずにここにある。
「虎?」
温かな手が、頬を滑った。綺麗な指が宥めるように。
「泣かないで」
「っ」
その指先が俺の目元をなぞり、涙が出てしまったのかと気づく。泣いている訳じゃない。ただ、目から落ちてしまっただけ。何故だか分からない。周りにはたくさんの人がいるのに…
俺は林檎飴を落とさないように、蓮を抱き寄せた。
「虎、花火。すごく綺麗だよ」
「んん」
「見ないと、損だよ」
「そうだな…」
あと数分で終わってしまうだろうか。
今見逃せば、また一年後しかここでは見られない。いや、それもいいかもしれない。一年後も、その一年後も、蓮と見られると決まっているなら。
「来年も来ようね」
「…ああ」
「虎」
「ん?」
「……好きだよ」
夢でぐらいキスさせてくれればいいのに、夢でくらい好きだと言ってくれ、そんな勝手な願望は、非現実的で叶うことなどないと、あのとき思っていた。何よりも大事で失いたくない人を傷つけ、泣かせ、苦しめた。全部許されないと分かっていても、望んでいた。
視界が滲んだと思った次の瞬間には、熱いものが頬を伝っていて。今度こそ、ああ泣いているのだと認めるしかなかった。
許されないからこそ守らなければならない。使命でも償いでもなく、愛しているから。
(傷付けたこと後悔してる?)
してる、蓮を傷付けてしまったことだけは
(僕を愛したことは、後悔してない?)
それは死ぬまでしないと、今ここで誓うよ
「……もう一回」
あの日の夢の続きはなく、あるのは蓮の熱だけ。溶かされてしまいそうなその感覚を、もう幾度、心地良いと思ったことか。
「愛してるよ」
重なった唇に、俺は誓った。
/fin
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