「蓮くん…」と、申し訳なさそうに目を細めたレオくんだった。知っていたのだろうか。彼の好きな人の恋人が、僕だと言うことを。突然僕が現れたことには驚いたかもしれないけれど、“僕”がここへ来たこと自体には驚いていないようだった。
部屋のなかからドアノブを握っていた手は、大好きな虎の手で、レオくんを押し退けて出てきたその顔が僕を捉えた。
「蓮!?」
「っ、ご、め…」
「おい蓮、ちょっと待て」
「あ、あの…」
鞄を落としたまま、今来た道を戻った。残念なことに財布はその中、携帯は充電切れで使えない。どこにも行けず、連絡もとれない。さっきまで重くて重くて堪らなかったはずの足が、軽やかに動いてくれる。僕は夢中で走って、けれど行く宛なんてなくて、駅の出入り口の前で足を止めた。
「はぁ、はぁ…」
ほんの数日で怖いくらい体力が落ちた。
もう動けないくらいに疲れて、胸も苦しい。星の一つも見えない空を仰いで、虎と生活していた日々は毎日一分一秒どんな瞬間でも綺麗で鮮やかだったなと思った。星が見えなくたって、月がよく見えるとか、夜風が気持ちいいとか、なんだって感じることがあったのに。今の僕は何も感じない。
暗くて寂しいとしか。
話も聞かないで逃げた僕を、虎は探してくれるんだろうか。どうして逃げていったのか意味が分からなかったら逃げたとも思わないかもしれない。こんなに動揺するのは初めてだ。きっとそれは、レオくんが僕よりずっと虎と釣り合う容姿だからとか、今まで虎を好きだと言っていた子達よりずっと真っ直ぐに好きだったのを知っているからとか、理由はたくさんあって。
でも一番は、自分の目で見てしまったことだ。レオくんではなく、知らない人だったらどうしていたんだろう。僕を好いて、仲良くなれて良かったと言ってくれた彼でなかったら…ただ、そう言ってくれたからと言って恋人を簡単には差し出すなんて出来ない。
膝を抱えて、始発待ちみたいに駅の前で踞って、声をかけられたのは割りとすぐだったかもしれない。
「蓮!?」
足音がして、パッと目を開けるのと同時に勢いよく肩を掴まれた。
「何してんだよ」
「とら…」
「帰るぞ」
「、まっ…」
一気に現実に引き戻され、頭の中が冷たくなるのが分かった。虎は僕の腕を引いて無理矢理立たせ、早足で歩き出した。寝起きみたいな髪に、寝る時用のTシャツ姿の彼は、大きく肩を揺らして息を切らしていた。フラフラの僕を、それでも離さない背中には、ぴたりとシャツが張り付いている。
また何度も電話をくれたのかもしれない。汗で濡れた襟足も、痛いくらいに僕を掴む手も、全部、知らない人みたいだ。
何度も虎の名前を呼んだけれど、一度も返事はなかった。心臓が苦しくて、部屋につく頃にはマラソンでもしたみいに息が切れ、玄関で膝を付いてしまった。レオくんの姿はもうない。それに少し安堵した。
「はぁ、は…ゴホッ、はぁ」
「来い」
大好きな虎の匂いと生活の匂いがする玄関で、腕を引かれて適当に靴を脱ぎ捨てると、虎の靴と絡み合うみたいに狭いスペースにそれは転がった。ああ、あの夜も、こうやって脱いだのだ…そんな考えが過り、僕以外の誰かが居た虎の部屋に押し込まれた。
クローゼットは開いていて、布団もぐしゃぐしゃ、床には脱いだままの形でスエットが置き去りにされている。
「どういうつもりだよ」
「、え…?」
「もう、帰ってこないつもりだった?」
ゆっくり、振り返った虎はいつか見た、とても傷ついた目をしていた。僕が虎を傷付けたときの目だ。深い黒の瞳が、僕を見る。
「ずっと連絡もなしで、出てくつもりだったのかよ。やっと帰ってきたと思ったら俺見て逃げるし」
「、待って、ちが…」
「どれだけ心配したか、お前分かって…」
「違うよ…」
薄暗い部屋で、ほんのり汗の匂いを滲ませて、虎が息を切らす僕からマスクをとった。それで呼吸が楽になっても、窶れた頬を晒す方が嫌で、僕は俯いた。
「ごめん、キス、してるとこ…」
「……は?」
「見た、んだ…実習中、一度帰ってきて、その時に…レオくんがいて」
「待って、何の話」
「…虎が来てくれた…前の週の、金曜日。帰ってきたんだ、でも、虎…」
「……松岡も蓮のこと知ってるみたいな事言ってたけど、知り合いなのか」
ああ、真実になってしまった。
虎の口からその名前が出てきたということは、もう確定してしまったのだ。小さく頷いた僕に、虎は大きなため息を落とした。
「、友達、なんだ」
「はあ?何の?」
「たまたま、知り合って…」
「いつ」
「まだ、一ヶ月、くらい…」
「…で、なに、アイツとキスしたって?」
「二人が、ベッドで…そのあと、すぐ、電話、したけど…繋がらなくて」
「はあ?ちょっと待てって、その日は…」
そう、酔った自分に松岡が付き添ってくれて、たぶんその日はそのまま泊まって…というところまで記憶を確かめながら呟いた虎は、その時はそのまますぐに寝たと言い切った。着信履歴を見たら必ず掛け直すんだから、それもなかったはずだ、と。それでも僕は、留守番電話に繋がる女の人の声を聞いた。
「なんで、すぐ言わないんだよ」
「ごめ…」
「ごめんじゃなくて…そんな誤解なら、蓮が納得するまで解くから」
「ごめん、なさい…ショックで…どうしたらいいか、わかんなくて、知ってた、から…レオくんに好きな人がいて、相談とかも…受けてて、だから、その相手が虎だったんだって…」
「するわけないだろ。どういうつもりだよ、それでタツのとこいったのかよ」
「え?」
「アイツが、蓮のこと泣かせるなら横取りしてやるって…タツには話せて俺には言えねぇの。お前は帰ってこないし、連絡もしてこない、会いに行ったら帰れって言われて…俺じゃなくてタツに頼って、意味分かんねぇのはこっちだぞ。こんなに痩せて、目も腫れて、会いたくないって思われて、どうしたいわけ?」
「ごめ…」
「松岡には好きだって言われた。でも断ったし、それっきり。バイトでは会うけど、別に何もない」
「…だけど、レオくん、虎とキスしたって…それに、二番目でも良いって」
「蓮、俺怒ってんだけど」
ぞっとするほど低い声だ。
怒っているのなんて僕だって分かっている。虎を信じないでレオくんの言葉を信じたことも、虎から連絡がないからと諦めていたことも。
「してない。絶対。蓮以外となんてしない。…松岡、気づいてたんじゃねえの?俺の付き合ってる相手が蓮だって。さっきもお前見て驚いてなかったし、蓮の名前も…アイツに話聞くより先に蓮のこと探しに来たからわかんねーけど」
「そんな…」
「着信だって、一緒に居たときなら見たかもしれないし、その履歴も消せたかもしれないだろ」
「、違うよ、レオくんはそんなこと…」
しない、と言い切れない自分が情けない。そうだと良いと一瞬でも思ったしまったことが申し訳なくて、悔しくて、ボロボロと涙がこぼれ落ちる。水分の足りない喉がひりひりと痛んで、虎の言葉一つ一つが胸に刺さって、それでも喋ろうとする僕を拒むみたいに虎の手が僕の口を塞いだ。
「…蓮が適当なことするやつじゃないってことは分かってる。分かってるから、俺のこと切ろうと思ってるのかって」
「っ、」
「タツのとこいくなら、蓮がそれを望むならって考えた。でも、俺は、お前が痩せて窶れて毎日泣いても、離してやれないと思った。蓮が不幸でも良いから」
涙で虎の顔はよく見えない。それでも、怒りより悲しみの方が大きいのだと分かる。
痛いくらいにその気持ちだって分かるし、でも否定したいこともさせてもらえないのは苦しい。そんな僕よりずっと苦しそうに、虎は「離れるな」と呟いた。
「頼むから」
「っ、」
「れん」
虎の親指に唇を撫でられ、近づく顔に息をのむ。
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