『ガタンッ』

「タツ、お前それどういうつもりだよ」

「だから寝込んでんだって。疲れて風邪も引いてるし。だから」

「そんなの俺が看るからお前が帰れ」

「お前に心配かけたくねぇから言ってないんだろ。汲み取ってやれよ」

「俺に言えなくてお前には言えるのかよ」

「俺だって今朝来るまで知らなかったから。誰にも言ってないんじゃねぇの」

虎の不機嫌な声が、廊下に反響している。
止まらない震えに、また吐き気を催して立ち上がるとゆらゆらと部屋が揺れ、足元もぐにゃりと沈むような感覚に襲われた。

「てかなんでタツが今日蓮のところ来てんだよ」

「せっかくこっち来てんだから顔くらい見たいだろ」

「……」

「虎こそ、何しに来たわけ」

「あ?」

「蓮が実習中で忙しいとか余裕ないとか知ってんだろ。お前に気遣わせたくなくて帰らなかったのに」

「はあ?なんなのお前」

「そっちこそなんなんだよ。とりあえず今日は帰れ。蓮まじで辛そうだから。お前が来たことは伝えとくから」

「……どけよ」

「だから─」

「どけ」

気持ち悪い。部屋が回ってる。もう虎たちの声は耳には届かなくて、トイレまで行く気力もなくその場に膝をついて横になった。

「どかねぇ」

「ああ?」

「今日は絶対会わせない」

「まじでどういうつもりだよ」

「虎こそどういうつもり?なあ、お前、蓮に隠してることあんじゃねぇの」

「何の話」

「……いいや。とりあえず帰れ─おい、虎!?待て!」

バタバタと足音が近付いてくる。床から伝わるその振動に目を閉じ、虎の足音だとわかる自分に泣きたくなった。リビングを通ってしか階段にはたどり着けない。僕の部屋にいくには必ずここを通る。ああ、せめて立ち上がっておこう、と頭は指令を出しているのに、体は動いてくれない。

「蓮!?」

「……」

「おい、大丈夫か?蓮?っ、タツ!お前これどういうことだよ」

ふわりと虎の腕が僕の体を起こした。
こんな姿見られたくなかったな、と、やんわりと胸を押すと、それでも僕を抱き締めるように体を支えてくれた。

「蓮に何したんだよ」

「こっちの台詞だ。いいから離れろ」

ああ、気持ち良い。虎の感触だ。
朦朧とする意識の中で、その感触に涙が溢れるのが分かった。でもそれ以上に、彼から知らない匂いがすることに、泣きたくなったのだと思う。誰の匂いとか、そんなことは分からないけれど。僕はこの、やり場のない感情を知っている。高校生のときと同じだ。

「蓮?」

「、とら…」

「ん?」

「……ごめ…って」

「なに?」

「……かえ、って…」

「蓮?」

「ご…め、かえって…おねが…」

苦しくて、それでも冷静だったはずの頭の中は先週のことを思い出してぐらぐらと揺れだした。フラッシュバックする。僕としかキスをしたことがないと言った口に、他の人が触れた。それだけで気が狂いそうな僕は、とてもじゃないけど今落ち着いて話すなんて出来ない。

「お願い…」

ゆっくり、虎の体温が離れる。

「実習終わったら帰るって言ってるし、とりあえずそっとしといてやれよ。それまでは俺もいるし。あと」

「っ、んだよ!?」

虎よりも体の大きな達郎くんが、虎の胸ぐらを掴んで壁に押し付けた。とても低い声で、何かを話しているようだったけれど聞こえなかった。
気付いたときには僕はベッドに寝ていて、虎は居なかった。自分が帰れと言ったくせに、居ないことに傷ついている。矛盾だらけだ…こんなに悲しい誕生日は生まれて初めてで、初めて、直接虎からの「おめでとう」を貰わなかった。
それだけで、もうダメかもしれないなんて、そんなことを思ってしまう自分にもうんざりする。電話で言ってくれたのに…こんなに泣いたのだって、きっと初めてだ。いつか虎を失う日が来たらと、考えたことがない訳じゃない。付き合い初めた頃は幸せの裏に、そういうものが潜んでいた。はずなのに、最近は…幸せすぎて、考えることもなくなっていたんだ。虎が隣にいることに慣れてしまったんだ。

達郎くんは甲斐甲斐しく世話を焼いてくれて、それでも夜には帰っていった。


歩くこともままならないくらいフラフラで、それでも不思議と実習中はいつも通りでいられた僕は、無事に三週間の実習を終えた。土曜日にはアパートに戻る予定だったけれど、その前に病院に行った方がいいと達郎くんに連れていかれ、点滴を打ってもらった。
学校にいる間は普通に食べれても、帰ってきてから全て吐くというのを繰り返し、最後の一週間は本当に自分でも体重ががくんと落ちたのが分かった。それは病院でその数字を見て、分かっていても衝撃を受けるほどだった。
結局虎からの連絡はあれから一度もなく、僕は日曜日の夕方達郎くんに大学まで送ってもらった。彼は最後まで心配して、車で来られる距離なんだからすぐに呼んでと言ってくれた。

「じゃあ俺帰るけど、まじで大丈夫?アパートまで送ってくよ」

「ううん、電車ですぐだし、大丈夫」

「そう、じゃあ…」

「達郎くん」

「ん?」

「一緒にいてくれてありがとう。ちゃんと、話すよ」

「…俺さ、お前らが付き合ってるって知って、まじで安心したよ。虎はあんなだし、もし蓮が他に彼女でもつくったらどうなるか心配だったし。蓮も、虎の事気に掛けすぎてたし。だから、二人が上手くいってるならそれが一番、お前らにとっても良いなって」

「僕、自分よりずっと、虎のことが大切なんだ。だから、もし─」

「もし、とか、まじでやめろ」

「…ん、ごめん」

大きな手が、ゆっくり僕の肩を二回叩いた。ぽんぽんと、少し強いくらいのそれに笑うと、達郎くんは今回初めて笑った顔見たわと、笑い返してくれた。

「飯、ちゃんと食えよ」

「うん」

日曜日の大学はゼミに来ていた学生と、研究室にこもっている学生で、僕がうろうろしていても目立ちはしなかった。達郎くんには話し合うと言ったけれど、その日は学内に泊まった。
このまま帰らなくても、虎からの連絡はないのだろう。きっと虎も怒っているのだ。せっかく会いに来てくれたのに、理由も言わずに追いかえしてしまって…こんなにもあっさり、虎の手が離れてしまうなんて思ってなかった僕は、やっぱり胡座をかいていたんだ。







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