どんなに辛くても苦しくても実習を投げ出すことは出来ず、やっとの思いで学校に通った。二週間目は地獄のように長く、達郎くんに一度だけ連絡をしてしまった。その週の土曜日は学校の先生達とご飯に行き、家に帰ったのは日付が変わる十分前だった。明日もやることはたくさんあるなと思いながら、先生にお礼のメッセージを送った。その直後だった。虎からの着信を受けたのは。指はメッセージを送る操作のまま画面に置いてあり、それに反応して通話状態になった。

「、」

「もしもし」

「……」

「蓮?」

「っ、もしもし…」

二週間ぶりに聞く虎の声は、いつも通りの低く響くもので、もう一度ゆっくり僕の名前を呼んだ。

「うん」

「今、いいか」

「ん」

「実習お疲れ」

「ありがとう」

「……明日、こっち来るのか?」

「え?あー…行けない、かな。やることたくさんあって」

落ち着いた声だ。
大丈夫、自分も落ち着いている。暗い廊下を一人きりなのに、何故か静かに進んで階段を上がった。

「そうか」

「虎は?今、バイト中でしょ?」

「休憩。明日…」

「ん?」

「いや…誕生日、おめでとう」

「えっ、あ、ありがとう…ほんとだ、日付変わってる」

「家、いるんだよな?」

「うん」

「分かった。じゃあ、おやすみ」

「ん…おやすみ」

本当にいつも通りだ。変わった様子はない…それなのに変にドキドキして、また眠ることができないまま悶々と夜を明かした。

夜から朝にかけてたくさん誕生日を祝うメッセージがきた。虎もわざわざそれで電話を…ほんの数分で切ってしまったことに、また後悔した。この二週間の中で唯一虎からきた連絡だったのに。会いたいの一言を言えば、自分が行けなくても虎は会いに来てくれたかもしれない…会いたい、でも会うのが怖い。それからもう一つ、一週間前の夜のことを、僕はどちらから先に聞けばいいのだろう。あの夜…あの声は間違いなく…

『ヴヴ…』

間違いなく、と、思ったまさにその瞬間だった。“誕生日おめでとう“とレオくんからメッセージが入ったのは。そしてそのあとに続く文字に、息が詰まった。

”あと、実習お疲れ様です。蓮くんにいい報告ができそうだよ。返信は帰ってきてからで大丈夫なので、残りの実習頑張って下さい。レオ”

「っ、」

どっちが先?そんなの虎に決まってるのに…虎が好きだと、小さく呟いた声がレオくんでなければ。そう、僕は先に、レオくんの“好きな人”を確かめたいのだ。同じバイト先で同い年、綺麗…それだけの情報で…でも、聞き間違えたりしない。確かに、レオくんの声だったのだ。
レオくんの好きな人が虎だったら、この“いい報告”とはどういうことなのか…考えただけでゾッとして、お腹から込み上げてくる感覚にトイレに駆け込んだ。

「っう、…はぁ、」

この一週間まともに食べれてもいないのに、やっと食べたものが出ていく。自分がこんなにメンタルの弱い人間だということは知らなかった。虎の事を好きだ大事だといいながら、僕は…
治まらない吐き気に目眩がする。揺れる視界でなんとか汚れた口を拭き、立ち上がろうとするけれどやっぱり無理で…そのタイミングでインターホンが鳴った。虎かもしれない、と、反射的に反応した体が持ち上がる。けれど、ドアを開けたのは虎ではなく達郎くんで。

「蓮!?おい、あっぶね〜…大丈夫か?蓮!」

「…つ、ろ……くん」

「きゅ、救急車!連れてった方が早いか?おい、蓮!?」

必死に僕の名前を呼ぶ達郎くんの声がなんとか、遠退こうとする意識を捕まえる。白く霞んだ中で、やっと出た声が、「気持ち悪い」だったことが分かるくらいには、頭の中ははっきりしていた。

「吐く?ちょっと待てよ、ほら、掴まれ」

「ん…」

そのあとなんとか再びトイレまで連れていかれ、背中を擦ってもらった。胃の中はもう空っぽなのに、気持ちが悪くてだめだ。少しでも動くとひどい目眩に襲われる。もしかして単純に風邪の類いかもしれないと冗談を言う余裕もない僕は、達郎くんが持ってきてくれていたスポーツドリンクを口に含んだ。

まともに食ってなさそうだったからと、彼は他にもゼリーやヨーグルトを持って、わざわざ届けに来てくれたのだ。

「にしても、お前まじで痩せすぎ。いくら実習でも自分が倒れたら意味ねぇぞ。虎とちゃんと─」

「分かってるよ。分かってるけど…先に」

「先に誰に聞くんだよ」

「……」

「違うだろ、相手がお前の知り合いだったからって、これは、お前と虎の問題じゃねぇの。もしそいつが虎の事好きで、部屋に上がり込んでヤってたって言うなら、それはお前が怒るとこなんだよ。虎に対して。例え誤解でも、お前だけが今こうやって辛い思いしてんのは事実なんだから、誤解させた知り合いにも謝ってもらうのが筋じゃねぇの。お前が遠慮してどうすんだよ。そいつが、虎を好きだって言ったところで何も変わらねぇだろ。譲ってやるつもりなのかよ」

「違っ…違うけど…レオくんを否定しないって…それに、レオくんの気持ちが真っ直ぐなことも、彼自身が良い子だってことも、僕は知ってるから…」

「だから、それが…」

虎を好きだと言う人は今までだってたくさんいたのに。でもそれは女の子ばかりで…虎が相手にしないことに、僕は安心してあぐらをかいていたのかもしれない。じゃあ同性だったら?もっとありえないのだろうか…そんな保証はどこにあるんだろう。実際、虎は僕しか好きになったことがないと言う。もし、レオくんと同じだったら…

「蓮…」

「っ、ん」

「虎、来たかも」

「えっ…」

「あの車、虎じゃねぇの」

リビングのカーテンの隙間から外を見た達郎くんが言った。ああ、カーテンも閉めたままだったと、関係ないことに目が向いた僕は、他にもやるべきことをしてないなと今になって気づいた。
それから虎の車を確認して、やっと動揺した。

「俺が出るから、ちょっと待ってろ」

「……」

「お前出る?」

頷くことも、首を横に振ることも出来ず、僕は達郎くんの目を見上げた。
それから「待ってろ」と彼の言葉に返事をするみたいにインターホンが響いた。返事をしなくても、誰も出てこなくても、虎は入ってくるだろう。それを知っている達郎くんは足早に玄関へ向かった。僕はリビングのドアの前でしゃがみこみ、二人の声に耳を傾けるしか出来なかった。
住み慣れたはずの自分の家が、知らない場所に思える。寒くて寒くて、もう五月半ばだというのに、凍えそうに寒くて、手足が冷たい。手のひらが痩せたかもしれない。こんなに自分の手って薄かっただろうかとか、爪が伸びているとか、虎がいないと何も出来ないのは僕の方だった。







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