屋敷で女中と話をしたり、たまに元北条の忍びである普賢や薬師と話をしたり、色々な事で暇を潰していると豊臣の軍医が屋敷を訪ねてきた。
「竹中殿はいらっしゃいますかな」
「こんにちは軍医様。半兵衛様なら城の執務から、今日で一週間程は屋敷に帰って来ていません」
「……一週間、ですか。という事は、また薬を飲むのも忘れていそうですね」
軍医は困った様子で「ふむ……」と、城の方を見つめた。
「失礼、もしや貴女は竹中殿の奥方殿で?」
「はい」
一応、私はこの城の者達には竹中半兵衛の妻という事になっているので、おかしな事がないよう軍医の前で竹中半兵衛の妻を演じた。
微笑んで、淑やかに。
「そうでしたか、竹中殿から診察の時に妻を娶ったと聞きました。なら、祝言はいずれ近いうちに行うのですかね、いやぁめでたい」
「お恥ずかしながら」
ん?ちょっと待って、祝言?祝言をやるなんて私は全く聞いていない。一体どういう事なのか、妻となったから祝言を開く?あんな恥ずかしい事を私は竹中半兵衛としなくてはいけないの?
契約内容は一体どこまで有効なのかしら?
「ああ、そうだ奥方殿。この薬は竹中殿の常備薬となっております。どうかお忘れずにお飲み下さるようお伝え下さい。私が直に城まで届けに行きたいところですが……申し訳ない、今から急ぎ京に向かわねばならぬのです、どうかご勘弁下さいませ」
「いいえ、届けて頂きありがとうございます」
軍医から紙の袋を貰うと、軍医は「では」と頭を下げて屋敷を後にした。軍医が言うには、竹中半兵衛は薬を飲むのを忘れてしまうらしい、長くは生きられないと自分で言っておきながら薬を飲み忘れるとは、軍師の癖に自分の管理も出来ないのか。
薬を受け取り、ふと気付いた。
「(今日、竹中半兵衛は屋敷に帰って来るのだろうか?)」
すでにあの男は一週間も屋敷に帰って来ていないんだ、いつ帰ってくるのか分からない。ならいつこの薬を渡す事が出来るだろうか。これは私が直接、本人に渡しに行った方が早いかもしれない。
最初こそは屋敷から出てはいけないと言われていたが、護衛の忍びをつけるにならば城に来ても構わないという事になった。早速、忍びを呼んでみると、半兵衛様!と慕う元北条軍・忍びの一人である薬師が私の前に来てくれた。
「忍びが忍びを呼ぶだなんて、おかしな感じね、そう思わない?薬師」
「僕も咲に呼ばれるなんて、変な感じで鳥肌が立ちそうですよ、それで?何の用でしょう?」
「竹中半兵衛のところまで護衛をお願いしたいの」
「護衛?護衛なんて無くても咲なら一人で十分でしょう?例え辻斬りや痴漢が出たとしても咲一人なら余裕で倒せてしまう、僕がわざわざ護衛しなくても」
「そうね、本当なら私一人で良いのよ。けれど城に来る時は護衛をつけて来いと言ったのよ、だから忍びを呼んだの、私の意思じゃないわ」
「半兵衛様が!?そうか、なら仕方ないですね。責任もって城まで咲を護衛しますよ、本当はまっっっったく必要ないでしょうけど、半兵衛様が言うのなら仕方ないです、お任せ下さい半兵衛様!」
「うん、まぁ……お願いね」
半兵衛の名前を出せば、薬師はすぐに了承してくれた。薬師に半兵衛への心酔は益々溢れているような気がしてならない。
一体、竹中半兵衛のどこがそんなに良いのか。
「ついて来て下さい」と言う薬師の後を渋々ついて行った。忍びである私が忍びを護衛につけて歩くなんて、違和感しか感じられず、落ち着かなかった。薬師は半兵衛様の命なら仕方ない、と護衛の相手が私だとしても任務だと割り切っているようだった。
城までの道のりは何もなく、途中ですれ違う兵達もこちらにお辞儀をする程度で何も疑ってはいないようだ。
「普通、疑うと思うんだけど」
「ん?咲、今の自分の姿を見ていないんですか」
「え?」
「着物を着て着飾っただけだというのに、咲の今の姿は美しい姫君のようですよ。兵達の対応は咲の容姿を見て、当然のものでしょう、護衛されているどこかの姫、もしくは武将の娘、そんな風に見られているんですよ」
「……私が?美しい?」
「は?自覚ないんですか?」
「いやだって、そんな風に言われた事ないし」
「まぁくノ一ですし、いつも口布をして顔の半分を隠していればそんな風に言われる機会はないでしょうね、咲は色の任務だって全くしてこなかったでしょう」
「……そうね」
でも流石に、美しい姫君というのは言い過ぎのような気がする。私の顔はどこにでもある顔だ、特に目立つような容姿ではないはず。
城に向かう間、薬師の言う通り全く怪しまれずに竹中半兵衛の部屋の近くまで行く事が出来た。
「では僕は此処まで、屋敷に戻る際にまた護衛にお呼び下さい、奥方殿」
「……わざと言ってるでしょう」
「本当の事でしょう?ああそうだ、半兵衛様に嫌われないよう気をつけて下さいね。咲はすぐに本音が言葉に出る、間違っても半兵衛様に好きじゃないとか、本心だとしても言わないようにして下さいね」
「……」
それは……一度、言ってしまったような気がする。いやむしろ、一度だけではなく何度も竹中半兵衛に向かって言ってしまったような。まぁいいか。
薬師と別れ、私は竹中半兵衛がいるであろう部屋の前へと向かった。襖が開いていたのでそっと顔を覗くと、中にいた竹中半兵衛と目が合った。どこか疲れている様子の竹中半兵衛は私の顔を見るなり驚いた様子だったが、すぐに小さく微笑んでくれた。
「やぁ咲、君が此処に来るなんて珍しいね。どうしたんだい?」
部屋に入り、私は竹中半兵衛の前に座ると彼は机の上にあった書物を片付け出した。仕事中ではなかったのか、片付けてしまってもいいのだろうか?それとも机の上にあったのは、私が見てはいけない内容物があったからなのか。
「ちゃんと護衛をつけて来たかい?」
「言われた通り、薬師にお願いして此処まで一緒に来たわよ」
「ああ……彼か、まぁ彼なら安心して君を護衛させられるね。ところで何かあったのかな?君が此処来るなんて」
「軍医が屋敷に来て薬を渡して欲しいと持ってきたわ、あと貴方がちゃんと薬を飲んでいるか気にしていたわよ」
薬が入った紙の袋を竹中半兵衛に渡すと、「ああ、これか」と中に入っていた粉薬を取り出した。
「参ったな、飲み忘れていたよ」
「身体の為に飲んだ方が良いんでしょう?お水を入れるわ」
「……君にとっては、薬は飲まない方が良いんじゃないのかな」
「どういう事かしら」
立ち上がり、近くにあった湯呑みに用意されていた水を汲んでいると、竹中半兵衛は悲しそうな表情をしていた。
「僕が病で死ねば、君と交わした契約はすぐさま終了するだろう。そうなれば君の身は僕に捕らわれず、妻としての役割からも解放され、晴れて自由の身になれる」
「……」
「君にとって僕の命など、早く無くなって欲しいと思っているのだろう?」
「そう、貴方にとって私って、そんな非情な人間に見えるのね」
「え……」
水の入った湯呑みを竹中半兵衛に渡して、先ほどと同じように前に座った。「ほら、早く薬を飲んで」と言うと、竹中半兵衛は慌てた様子で持っている粉薬を口に入れ、水でぐっと流し込んだ。
その様子を見て「うん」と、私は頷いた。
「確かに貴方が死ねば、交わした契約は終了するわね、でもそれを望むのなら私は此処に来てすぐに貴方を殺しているわ、寝ている時、仕事をしている時、貴方を殺す隙なんていくらでもあった」
「……恐ろしいね」
「忍びですもの、暗殺なんて難しくもないわ」
「でも今こうして僕を殺さないという事は、期待しても良いのかな」
「そうね、そんな疲れた顔をした人間を殺そうなんて思わないし、少なくとも私は貴方に病で死んで欲しくないと思っているわ」
「!」
「豊臣に来てまだひと月ほどだけど、貴方の事を少しは知ったつもりよ、小田原城での約束も守ってくれたみたいだし、根っからの悪人ではないと思うわ」
残念ながら小田原城は落城したが、私との約束で城主の命は助けてくれた。根っからの悪人ならば、私を捕らえた後にでも北条氏政の首を取ろうとするだろう、そうしなかったのは、彼なりの優しさだったのだろう。
「薬もちゃんと届いたし、私は屋敷に戻るわ」
「もう行ってしまうのかい?少し話をしないかい?」
「仕事中でしょう?早く終わせて休んだ方がいいわよ、また目の下に隈が出来ているもの、一体何日休んでいないのかしら?」
「はは……返す言葉もないよ」
竹中半兵衛の部屋を後にしようと立ち上がると、「半兵衛様、失礼します」と声が聞こえ、銀髪の背の高い武士が部屋に踏み入れた。
すると部屋に入ってきたその男は私を見るなり、ぎろりと睨んできた。そして持っていた刀に手をかけ、殺気のこもった視線をこちらに向けてきた。
「貴様ッ、何奴!」
「えっ」
私の事だろうか、銀髪の男は私から目を離さず「間者か!」と言いながら、素早く刀を抜いた。そしてそのまま男は私に刀を振り下ろしてきた。
「!」
とても速い抜刀と剣撃に、目で追いかける事しか出来なかった。しかし、なんとか反射で体を動かしすぐさま袂に隠していたクナイで防ごうとしたが、一瞬の影に気付いてクナイを出さずに済んだ。
私の目の前には、銀髪の男の剣撃を刀で受け止めた竹中半兵衛の姿があった。あの一瞬で竹中半兵衛は私を守るために動いたらしい、なんて反射の良さだ。
「なっ!?半兵衛様ッ!?」
「何の真似だい、三成くん」
「この女は曲者です!」
「何故そう思うんだい?」
「立ち振る舞いが明らかに常人ではありません!この女は私を見た瞬間に己の隙を全て消しました、まるで私を警戒するように……ただ者ではありません!すぐに抹殺致します!」
「この者に手を出せば、僕が君を殺す」
「半兵衛様ッ!?」
竹中半兵衛の冷たい言葉に、銀髪の男は一歩後ろにたじろいだ。三成、という名前を聞いてすぐにこの銀髪の男が「石田三成」だということに気が付いた。
それにしても、いきなり私を襲ってくるとは、しかも私がよく一瞬だけ石田三成に対して警戒したのに気付いたものだ。忍びの癖のせいか、つい人を警戒してしまう。その癖が逆に怪しまれる事になるなんて、これからはその癖に気を付けなければ。
「彼女に刃を見せる事は許さない」
「半兵衛様……この女は」
「紹介が遅れたね、僕の妻だよ」
「つ、妻ぁああ!?な、半兵衛様!?いつの間に妻を!?いや、しかし半兵衛様!半兵衛様は妻を娶る気はないと以前仰っていたではありませんか!何故、突然妻などを!?」
「気が変わったんだよ」
竹中半兵衛は自分の後ろに私を隠すように立った。まるで石田三成から私を守るように、今思えば咄嗟にクナイを出さなくて良かったなと思う、クナイを見られていたらややこしくなっていただろう。今は竹中半兵衛の妻として、か弱い女のフリをしておくしかない。
夫に守られている妻のフリを……ああ鳥肌が立ってきた。弱いフリの演技がこんなにもむず痒いものだとは。
「……この者が……半兵衛様の……」
石田三成は何故か私の顔をじっと見つめてきて、そしてハッとした顔になった。一体何だというのか、あいにく私は石田三成とは初対面だ。会った事も話した事もない。
「し、しかし半兵衛様、祝言を挙げておりません!なのに妻とは……これは一体どういう事ですか!」
「ああそうだね、祝言か……」
竹中半兵衛はちらりと私の方を見た。まるで「どうする?」と聞くかのような仕草だ。それに対して無視するように顔を背けると、石田三成は何を勘違いしたのか「では!」と声を上げた。
「祝言がまだでしたら、この石田三成にどうかお二人の祝言の段取りをお任せ下さい」
「そうか、じゃあお願いするよ。忙しくて祝言を考えていなかったからね」
「はっ、お任せ下さい!」
「そうだ三成君、僕に用事があったんじゃないのかい」
「いえ、また後ほどお伺い致します。半兵衛様の奥方に刀を振るった事、どうかお許し下さい!」
「次からは気をつけるように、ああそうだ三成君、妻を僕の屋敷まで送って行ってくれないかい?」
竹中半兵衛のまさかの言葉に、私は嫌な顔が出そうになったがぐっと堪えた。石田三成に送ってもらうなんてとんでもない、私にいきなり斬りかかろうとした男だ、もしかしたら私の事をまだ疑っているかもしれない、妙に勘の良い男だ。
石田三成は「お任せ下さい!」と、私を屋敷まで送る事を了承していた。薬師か普賢に護衛をお願いしようと思っていたのに、どうして石田三成になったのか……
にこにこと微笑みを絶やさないように、私は石田三成に「よろしくお願い致します」と、嘘っぱちな笑顔を見せた。豊臣に来てから随分と、無理に笑う事が増えた気がする。
石田三成は私を疑う様子は一切見せず、屋敷までの道なりを共に歩いた。勿論、会話など無い。
こんなにも息の詰まった道なりは初めてだ。
早く一人になりたい……