闇夜を抜け、火薬の匂いを鼻に掠め、見下ろす先には数え切れぬ兵が刃を向け合っている。これは合戦だ、初めてではない、もう数え切れぬ程何度も経験してきた。
今の時代、戦など珍しいものでもない。
所詮は雇われ忍びだ、雇われさえすればどんな命令でもこなしし、どんな戦にだって参加する。表に立たない私のような忍びは、闇に溶け込み、闇の中を進み、そして任務を遂行する。
「……苦戦している」
しかし、この戦はどうだ。
見下ろした先にはこちらの軍の兵士達が横たわっている。自軍の旗がいくつも倒れ、このまま自軍がこの戦で負けそうになっているのを目を細めて見つめた。雇われている身とはいえ、このままでは戦況はとても不味い。戦で負けてしまえば雇い主が居なくなってしまい、給金は全くのゼロとなってしまう。
それは困る。
例え戦に負けたとしても、雇い主の命さえ守れば何とか最悪の状況は切り抜けられるかもしれないが、減給はどうしても逃れられない。
「……はぁ」
木の上で今の状況にため息を吐いていると、とある影が私の隣に音もなく降り立った。
「……どうします?」
「……」
静かに隣にやってきた同僚の忍びに話しかけてみたが、無口なままで何も答えてはくれなかった。そもそも、私がこの北条に雇われてからこの忍びの口から発せられる言葉を一度も聞いた事がない。話さないのか、それとも話せないのか、意思疎通は取れるみたいだけど、何を考えているのかは分からない。
伝説の忍びとは、こういうものなのか。
「……この戦況、不味いですね。これはもうさっさと負けを認めて軍を引くしかないですね。勝算は何度か考えてみましたけど、結局は最後には詰みます。どうやら向こうの軍師の方が一枚上手のようです。兵士達を無駄死にさせる前に降参し、撤退させましょう。今すぐに北条様を城へ」
「……」
「あ、風魔さんが北条様を安全なところに連れて行ってくれるんですか? じゃあお願いします。私はもう少し戦の状況を見て記してきます、ではまた城で落ち合いましょう」
頷いた風魔小太郎に、北条氏政の避難をお願いすると、私達はすぐに二手に別れた。
「(かなり、兵を失ったな)」
合戦後の周りを見渡した。我が北条軍の兵は無惨にも倒れ、血の匂いが充満していた。そっと口布を上げて、目を閉じて動かなくなった兵達に手を合わせた。再び目を開き、空を見上げると、こんな時でも月が輝いてこちらを見下ろしていた。あまり眩しい月は好きではない、暗闇に溶け込みにくくなるからだ。黒ずくめなこの格好も月明かりの下では目立ってしまう。
さて、私もそろそろ城に戻ろう。
北条は戦から引いたが、私の仕事はまだある。雇われ忍びとして、やる事をやらないとあの爺さんはまた煩く言ってくるだろう。その役目は風魔だけでいいというのに。全く。
「……!」
自軍陣地へと体を向けると、人の気配がした。戦が終わっているというのに、まだ生き残りが居たのか、敵なのか味方なのか? どちらにせよ警戒をしなくては。
「……おや?」
「!」
現れた姿を見て、私は瞬時にクナイをその人物に向かって数本投げた。クナイに気付いた相手は、すぐに刀でクナイを弾き落としていたが、私はクナイに仕込んでいた糸を引っ張ると、落とされたクナイは再び動き出し、油断していた相手は動き出したクナイに対応し切れず、腕で身を守った。キンッと金属音がし、再びクナイは地面に落ちたが、私はすぐに糸を操り、クナイを自分の手元に戻した。
「ああ……なるほど糸か、見えなかったよ」
「……」
ゆっくりとこちらに歩いてきた人物は、白の装束を身に纏った、細身の銀髪の男だった。すぐに彼が豊臣の者であると分かり、再び身構えた。彼の銀髪は月明かりできらきらと輝いて見えたが、周りの血の匂いですぐに現実に引き返された。
目の前にいるのは敵だ、油断してはいけない
「君は、豊臣の忍びではなさそうだね。となると北条かい? それとも視察に来た、よその軍かな?」
「……」
「沈黙か、まぁどちらでもいいよ。捕まえて吐かせれば良いだけだからね」
「!」
男は刀をこちらに振ったかと思えば、その刀は伸びて私のすぐそばまで届きそうだったが、すぐに後ろへと下がり、その刃に斬られる事はなかった。
「(関節剣……)」
その特殊な刀を武器として使う人物に心当たりがあった。豊臣軍・軍師、竹中半兵衛だ。
まさか、私の目の前にいるこの人物こそが竹中半兵衛だというのか。思っていたよりも華奢なその姿に信じられなかったが、あの刀は間違いなく竹中半兵衛の武器のようだった。
「良い動きだ、まさか僕の刀を見切るとは」
「……」
「ふむ……君は北条軍の忍びだろう? こんなところで何をしていたんだい? 戦はもう北条の負けで終わったはずだよ? 今さらこちらの大将の首でも取ろうというのかい?それは命知らずで悪あがきというものだよ」
「貴方の首を取れば、大手柄かしら?」
「……僕の首を? ふ、なるほど、君は僕が誰か分かっているようだね。面白いじゃないか、くノ一ごときが僕の首を落とせるとでも?」
「貴方の首を持って帰ればきっと我が雇い主は大喜びでしょうね」
「その前に僕が君の心臓を貫いてあげるよ」
見つめ合った私達は、お互いの動きを一瞬たりとも見逃さず、同時に動き出した。
忍者刀をすぐに鞘から抜き、竹中半兵衛の刀と対峙した。金属音が鳴り響き、どちらも引く事なく互いの刀がぶつかり合っていた。
「……へえ、くノ一にしては力がある」
「貴方は男のくせに女みたいな身体ね」
「その口もすぐに喋れなくしてあげるよ」
「あら、その前に貴方の頭と胴体はさようならよ?」
「生意気な、だからくノ一は嫌いなんだ」
「ありがとう、私も貴方が嫌いよ」
「闇に落ちてそのまま死ぬと良い」
「ろくな死に方はしないと思うけど、貴方に殺されるのだけは生理的に嫌だわ」
「一瞬で殺してあげるよ」
「まだ死ぬわけにはいかないの」
刀を振りながら、竹中半兵衛の特殊な刀と交戦した。名のある武将とだけあって相手はかなり強かった。遠距離も近距離も対応出来るあの刀はとても戦い辛い。なんて面倒くさい刀だ。
クナイを投げれば、すぐに避けられてしまったが、そのクナイにもまた糸がついている。下手に動けば竹中半兵衛の体に巻きつくが、すぐに見つかってしまい糸が切られてしまった。
「……厄介な糸だね、おかげで目が疲れる。月明かりが無ければ見えなかったよ」
「一瞬でも隙があれば糸が攻撃してくるわ、逃げ続けられるかしら?」
「!?」
糸は竹中半兵衛の隙を見つけ、すぐに刀を持ったその腕に絡み付いた。動きを封じられ、竹中半兵衛はどうするのか眺めていると、彼は急にこちらに向かって走り出した。
「!」
糸で利き手を封じられ、刀は使えないはずなのに何故この男は私に立ち向かって来るのか、糸は竹中半兵衛の刀に絡み付けたまま、クナイを竹中半兵衛に投げたが、もう片方の腕でクナイを弾き落とした。しかし例えクナイを弾き落としても、再びクナイは飛んでくる。数本は腕で防御したせいでクナイが竹中半兵衛の腕に刺さっていた。
しかし竹中半兵衛は腕にクナイが刺さっていようと、こちらに向かって来ている。血を流しながら、こちらに……なんて男だ、この男は軍師のくせになんて荒い戦い方をするんだ。
「逃がさないよ」
「!」
竹中半兵衛の血まみれの腕が私の右腕を掴んだ、私の左腕は竹中半兵衛の右腕を糸で動きを封じているので動かせない。そのまま後ろに下がると背には木が。これ以上後ろに下がる事が出来なくなってしまった。
「しまっ……」
しかし、動けないのはお互い様だ、一体どうするというのか。
「捕まえた」
「捕まえたって……私も貴方の腕を捕らえているのよ?お互いに両手を動かせないというのに、これからどうするつもり?」
「動かせない? まぁ刀は君の糸に封じられてしまったけど、左はこうする事も出来るよ」
「!?」
竹中半兵衛が捕まえていた私の腕を離したかと思えば、その手は真っ直ぐに私の首を掴んだ。
「あがっ……」
「ほら、油断してはいけないよ。このままこの左手だけで君の首を潰せばあっさりと殺す事も出来る、まぁクナイが刺さってとても痛いけどね、君のこの細い首を折るには問題ないさ」
「う、ぐっ」
「……ちっ、この糸はまだ締まるのか、刀ごと僕の腕を糸で千切るつもりかい? なんて女だ、本当に君のような女は嫌いだよ」
私は首を絞められながらも、糸を引っ張り、竹中半兵衛の空いている腕をギリギリと絞めつけていた。殺傷能力の高い糸だ、このまま引っ張り続ければ竹中半兵衛の腕は使い物にならなくなるだろう。
首が折れるのが先か、竹中半兵衛の腕が千切れるのが先か、互いに殺意を相手に向けていた。
「ああ、そうだ。この口布は君の死に顔を見るのに邪魔だね、外してしまおうか」
「……けほっ、ごほっ」
竹中半兵衛は私の首から手をそっと離した。入ってくる空気に、私は咽せた。危なかった、あのまま首を絞め続けられていたら死んでいただろう。
細い体のくせに、なんて力だこの男。
目の前にいる竹中半兵衛を見上げ、睨み付けると、竹中半兵衛はくすりと笑った。
「辛いのかい? すぐ死なせあげるから安心するといい」
「……貴様っ」
「さあ、どんな顔なのか」
竹中半兵衛は私の口布を無理矢理に下ろし、私の顔を晒け出させた。このまま死ぬわけにはいかない私は、竹中半兵衛を睨みつけたまま、自由になっている腕を「今だ」と動かそうとしたが、すぐにその腕は竹中半兵衛の手に捕まってしまった。後ろに逃げようにも背には木がある、再び竹中半兵衛と見つめ合う形となってしまった。
「!」
「くっ、離せっ! このままその腕を落とされたいのか!」
「……」
「おい! 聞いているのか! 竹中半兵衛!」
「……君は」
「離せっ!」
竹中半兵衛は私の腕を捕まえたまま、私の顔をじっと見下ろしていた。一体なんだというのか、微かに匂う血の匂いは、きっと竹中半兵衛の腕から落ちる血の匂いだろう、今もクナイは竹中半兵衛の腕に刺さったままだ。
「聞いているのか、竹中半兵衛!」
「……此処、にいたのか」
「は……」
竹中半兵衛は、私に顔を近づけて来た。そして何をするでもなく、ただじっと私の顔を見るばかりだった。
「おい!竹中半兵衛!」
「君は、どうして……いや違う、君じゃない」
「……は?」
「すまない、君の顔に目を奪われてしまっていた」
「……ふざけているのかしら? 豊臣軍師ともあろう人がくノ一の顔に見惚れてでもしたの?だとするならば、とんだ笑い話だわ」
「見惚れる? ああ、そうかもしれないね。僕自身も驚いているよ」
「……冗談でしょう、寒気がするわ」
「君を殺すつもりだったけど、気が変わった」
「は?」
「君、豊臣に来ないかい?」
「はぁ!?」
顔を近づけながら、竹中半兵衛はとんでもない事を言い出した。豊臣に来い? 行くわけがないでしょう? 私は北条の忍び、私にとって竹中半兵衛は敵、なのに一体どういうつもりなのだろうか。
「はい行きます、とでも言うと思った? 貴方一体何を考えているの」
「色々と考えているさ、五手先もその先も、君が豊臣に来る未来もね、豊臣に仕える気はないかい? 北条よりも良い条件を出そう」
「私の雇い主は貴方ではないわ」
「どうせすぐに変わるさ」
「そろそろ離してくれないかしら? 離さないのならその腕を引き千切るわよ」
「君は……綺麗な顔をしているのに、その口は物騒だね」
「それはごめんなさい、私は今すぐ貴方を殺したくて堪らないわ、貴方のその顔も見たくない、今すぐ目の前から消えて欲しいわ」
「そうか、ならば」
目の前にいる竹中半兵衛の顔も見たくない、と竹中半兵衛を睨み付けると、竹中半兵衛は妖しげに小さく笑い、私にゆっくり近付いて来た。
まさか、と思った時にはもう遅かった。
「んっ……」
竹中半兵衛は、私に唇を押し付けてきた。
急な事に、私は抵抗も忘れて硬直してしまった。まさかこの状況で私に口付けてくるなど思うはずもない、私を殺そうとしていた相手だ、これは何が起こっているのか。
そう思っていると、唇をこじ開けられ、竹中半兵衛は私の口の中を犯し始めた。
「んあっ……」
こ、この男は一体、何をしているんだ。
敵方のくノ一を捕まえ、口付けなど……
「……」
「痛っ……」
「汚い、やめて」
「酷いな、噛む事ないだろう」
竹中半兵衛の唇を噛んでやると、反射的にすぐに私から離れてくれた。その唇は私が噛んだせいか血が滲んでいた。ざまぁみろ。
「動けないというのに、強気だね」
「貴方こそ、腕は私の糸の中よ」
「ああ、そうだったね、でも構わないよ」
竹中半兵衛は何を思ったのか、持っていた刀を地面に落とした。武器を落とすなど、一体何を考えているのか、何を考えているのかまるで分からない。そのまま彼は腕に刺さったままのクナイを抜いて、地面に落とした。
「さて」
竹中半兵衛は、後ろに下がり私から離れた。
「僕はそろそろ自軍に戻らないといけない、今すぐに君を捕まえて城に幽閉したいところだけど、今回はやめておこう」
「随分と勝ち誇った顔をしているのね、その腕を千切っても良かったのよ?」
「今此処で君と争っても意味がない、戦は終わっているからね」
「あら、逃げる気?」
「先に逃げたのは北条の方だろう? 君も引くといい、それともまだ僕と一緒に居たいのかい? 口付けで足りないというのなら……」
「……」
私はすぐに竹中半兵衛から離れた。
「……残念だよ、本当はもう少し君に触れていたかったけど、次の機会にしよう」
「二度と貴方には会わないわ」
「ふ、そうかい」
そう言って竹中半兵衛は地面に転がっている刀を拾い、くるりと向いて来た道を戻って行ってしまった。背を私に向けている今、竹中半兵衛に攻撃しようと思えば出来た。しかし私は刀を抜く事もせず、切れた糸を振り解いた。
ふと地面を見れば、ぽたぽたと落ちる血が。
竹中半兵衛の腕から落ちたものだろう。利き腕ではないとはいえ、それなりに痛いはずだ。竹中半兵衛という男は良く分からない、一体何がしたかったのか。
私は口布を取り、地面に投げ捨てた。