邸に入ると、忠信は迷うことなく奥に向かってすたすたと歩く。
ある一室に入り遣戸を閉めるまで、不思議と誰にも擦れ違わなかった。
鎌倉に来てから忠信が寝泊りしていた場所だという。
暫く主が不在だったのか、この空間には何もない。
これが俗に言う『伽藍堂』状態だろうか。
「隆也からの伝言。明日の夕方なら時間が空くから話しよう、ってさ。その時は俺も同席するけどいいよね?」
「もちろん」
「‥‥‥ふうん。邪魔じゃないの?」
「忠信が?どうして邪魔だって思うの?」
和泉の話を聞くにしても。
私が此処まで来た経緯を話すにしても。
「隣に居てよ。私の住んでた世界、知っていて欲しいの」
忠信には覚えていて欲しい。
‥‥‥私が生きていた場所を。
私だけでなく和泉という第三者からの話でも知って欲しい。
他の誰でなく、彼だけは覚えていて。
「うん‥‥分かった」
微かな沈黙の後、忠信は目尻を和らげた。
その柔らかい雰囲気に私まで頬が緩む。
惹き付けられる様に身体を寄せれば、甘い腕に包まれた。
朝抱きしめられた時よりも、心臓が、刻む。
硬質なピアノ線を思わせる濡れ羽色が、さらりと頬に掛かる。
熱い吐息をすぐ近くで感じたその時、
「四郎、居るのか?」
張りのある男の声が静寂を破られ、同じタイミングでばっと離れる。
「御所で和田殿からお前が帰ったと聞い、───っ!?」
声にならない悲鳴を上げて入り口で立ち尽くすのは、少しだけ懐かしい、義兄となった人。
「かかか楓殿もご一緒でっ?」
「うん。三郎くんお久し振り」
「当たり前でしょう?俺の任務に楓を連れて来る事も含まれていますから。あと、四郎でなく忠信です。約束をお忘れですか」
「あ‥‥いや、忘れてはいないが‥‥すまぬ、つい。‥‥‥楓殿も、突然大声を出して申し訳ありません」
「気にしてないよ。それより約束って?」
「その前に兄上、中に入ればどうですか。楓と話をしたいのなら」
忠信の言葉を聞き、苦笑しながら三郎くんが胡坐を組んで座った。
板張りの床は直に座ると足が疲れるので部屋の主に円座の有無を尋ねると、首を左右に振られる。
どうやら、この閑散とした部屋には円座すらないらしい。
無頓着な忠信らしいけれど、今まで客人が来た時どうしていたんだろう?
‥‥‥彼の事だから部屋には入れてないのかな、多分。
「それで楓は、俺と兄上の約束が聞きたいんだよね?」
「うん」
頷けば、忠信は人差し指で私の額を軽く突いた。
「何時までも『四郎』や『三郎』だと、誰を呼んでいるのか解り辛いだろ?」
古くから御曹司の御家人、伊勢義盛という人も伊勢『三郎』義盛。
御台所と呼ばれている北条政子の弟、北条義時も北条『四郎』義時。
これは幼名といい、古来から諱を呼ぶことを憚られたので多くは幼名を使う。
太郎、次郎、三郎、四郎───これは非常にポピュラーな幼名なので、忠信の言う通り物凄くややこしい。
御曹司の御家人だけでもどれだけいるのか正直不明だ。
三郎殿、と皆が揃う場所で呼んだら何人返事するんだろうと想像してみた。
ちょっと面白い。
「黄瀬川の宿で御所様と再会された夜、御曹司が仰ったんだ。それで俺達は家族と同じだと。それを聞いて、互いに諱で呼び合おうと決めたんだよ」
「私は反対したのですが‥‥」
「一門が団結せねばならぬ時なのに、諱に拘って如何とする!って一喝されてたよ」
「‥‥‥なるほど、御曹司に上手く丸め込まれたんだ」
笑いを堪えた。
そんな私の正面で、三郎くんが深い溜息を吐く。
久々に会う三郎くんは、大鳥城の頃より若干頬が引き締まったのかな?
日焼けした顔つきも少しだけど大人びた気がする。
とは言え、相変わらずきらきら輝く童顔は健在で、溜息を吐いても何処かあどけない。
「我らも含め家人の中には無官の者が多く、その全てに渾名を付けても覚えられぬ、と仰せになられて‥‥」
「三郎くんは相変わらず苦労性だね」
「俺もそう思う」
「‥‥‥はぁ」
今度こそ声を上げて笑う私と、飄々とした顔の忠信、それと若干疲れた三郎くん。
変わらない。
何ら変わっていない、温度のあるやりとりが嬉しい。
女房さんの用意してくれた夕餉を終えた後も、当たり前のように一緒に部屋に戻って。
積もる話をしている内に、三人で笑っていた。
燭の明かりが揺らめく中、そっと願う。
夜が少しでも、この兄弟に優しければいい。
鎌倉の地がぎらつく太陽のようであっても、夜は。
夜だけは、大好きな人達に優しいものであって欲しいと。
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