かれはてん後をば知らで 夏草の
深くも人の 思ほゆるかな
彼の帰館は、舘の山に本格的な夏を伴った。
私にとって二度目の夏。
一見、平穏で穏やかな大鳥城の日常こそ。
この日々こそが激動の前の凪であると、今の私は知っている。
変わったもの、変わらないもの。
両手に掬う様に数え上げてしまう私は、不安なのかな。
「平次さん、ありがとうございました」
「どういたしまして」
平次さんと私が呼ぶこの男性は、忠信が私につけてくれた弓の師だ。
忠信が率いる隊の中で恐らく忠信に次いで弓の名手だと思う。
思う、とあやふやな言い方なのは、私自身が忠信が弓を見た事がないから。
あの三郎くんですら「流鏑馬なら忠信」と褒めるその腕を、一度見てみたいのだけれど。
「嬢ちゃんは筋がいい。残身が崩れないから、真っ直ぐに飛ぶ」
残身、とは矢が放たれた後の姿勢の事。とても重要な姿勢だ。
例えば放った直後に次の矢を番えるまでのほんの一瞬だったとしても、残身を崩してしまえば狙いから逸れてしまう。
「本当?平次さんにそう言って貰えると自信が付くね」
木の幹から矢を引き抜きながら返事をした。
確かに最近、的の近くに当たる事が多くなった。
腕を上げたのだとしたら、嬉しい。
「だからと言って調子乗るんじゃないぞ?日々鍛錬が肝心だ」
「はい。頑張ります」
二十代後半に見える平次さんは、敬語を使わない。
嬢ちゃんと呼んでくれる。
最初から、忠信と結婚した今も、変わらないで接してくれる。
元々そういう人なのか、公の場以外では三郎くんや忠信にもこんな話し方だ。
彼の父親は、私も何度か話した事がある家臣のオジサマ。
生まれた時から佐藤家に仕えていたという平次さんからすれば、幼い頃から面倒を見てきた二人は弟のようなものらしい。
そんな平次さんだからこそ、忠信は私の師匠に付けてくれたのだろうと思う。
私が緊張しないように。
「最初は女に弓を教えろと言われて驚いたけどな。しかも相手は奥方様だろ?とうとう四郎も血迷ったかと思った」
最初の稽古日を思い出したのか、平次さんは笑い出した。
それは吃驚しただろう。女の身で弓を嗜むなんて、あまり聞かない時代なのだから。
「覚えてる。平次さんってば顔を見るなり、お前平泉でくたばったんじゃなかったのかー!?って凄い剣幕で怒鳴って」
「そりゃそうだろ。物の怪同然で帰還した四郎は何も言わないし。こりゃ嬢ちゃんが振ったか、おっ死んだかって皆心配してたんだ」
俺は後者だと思ってたがな。
ある意味失礼で遠慮ない物言いにそれでも笑ってしまうのは、横顔が優しいから。
真相を知らないのに、近い想像をする平次さんはちょっと凄い。
「そんな時にいきなり、結婚した、妻に弓教えろーとか言われた俺の身にもなれって」
あの急な式の日は出かけていたそうで、数日後に帰って眼が点になったとか。
「何にせよ、四郎と譲ちゃんを気に入ってる俺としては、嬉しかったけどな」
「‥‥ありがとうございます」
胸がじんと震えた。
変わらないもの。
それは、大鳥城の人達の、暖かさ。
何の得もない私を、受け入れてくれる懐の大きさ。
「それに、もう一人の堅物にも春の訪れが来そうだし?」
「もう一人?‥‥‥ああ」
弓と矢を城の武器庫に片付け終えた平次さんが、視線で指し示した先を見た。
何も考えずにそちら───庭の一角を。
「三郎様!待ってください三郎様!私もご一緒します」
そこには、なんとも微笑ましい光景があった。
どう見ても五つは年下に見られそうな童顔の持ち主と、彼を早足で追いかける美少女の姿。
あれで彼女が私より二つも年上なんだと言うから驚きだ。
「で、ですが、さくら殿には鍛錬を見てもつまらぬと思いますが‥‥」
「そんな事ありません!三郎様を見ているだけで楽しいですっ!」
高々と宣言する彼女の好意に、流石の三郎くんも気付かない筈はない。
二人共、真っ赤。
見ているだけで微笑ましくなる。
「平次さん。あそこだけ、春、ですね」
「春だな」
「帰ったら忠信に報告しとこう。心構えして貰わなきゃ、お兄ちゃん取られたーって泣かれると困るし」
「ははは。四郎が泣いたら俺にも教えてくれよ。じゃ、先に戻るわ」
平次さんは笑いながら私の頭をぽんぽんと撫で、歩いて行った。
城に戻ってすぐ、志津さんから乙和さんが呼んでいると聞き急ぎ足の所を呼び止られた。
「楓ちゃん!」
「‥‥‥さくらちゃん」
声をかけたのは、さっき三郎くんを追いかけていた彼女。
深夜に私達の部屋を訪れたあの日から、身柄を三郎くんが預かることとなった。
身元や目的を明かせない以上、三郎くんの『客人』と扱われている。
けれど、何となく皆の対応が違う。
『あの三郎が平泉から連れ帰った貴重な女性』
‥‥という扱いを受けていると気付いていないのは、本人達だけだろう。
「三郎くんを見に行ってたんじゃなかったの?」
「逃げられちゃった」
残念、と。
がっかりと肩を落とす仕草はとても可愛くて、思わず吹き出した。
「足の速い三郎様も素敵だったけれど。‥‥‥私、嫌われているのかしら」
さくらちゃんはもう、全身で三郎くんが大好きだ。
何でも、平泉で初めて逢った日からだという。
若桜さんの話をする為に出向いた折に、一目惚れしたのだと。
その後も、薬師である彼女の家が潰される事の無いよう、色々と動いてくれた。
一番心苦しい時に、彼女と父上を励ましていたのも、全部三郎くんだ。
うん、分かる。
三郎くんは優しくて男気があるもの。
さくらちゃんでなくとも、恋をしてしまう。
「三郎くんが?それはないと思うけど」
「舘の山への道中もお優しいけれど、必要以上に話をしてくださらなかったの。半ば脅して着いてきたから、怒っているのかもしれないわ」
脅して、っていうのが前も聞いたし気になるが置いておこう。
それよりも‥‥‥コレは、アレだ。
庇護欲とか母性本能とか、そんなモノ。
元気のないさくらちゃんを見るだけで、きゅんと胸が鳴る。
「えーと‥‥‥ほ、ほら!三郎くんはお、女の人に免疫ないだけだから!」
「でも、楓ちゃんには平気でしょう?」
「それは私が弟と結婚してるからだよ。義理の妹だから」
「‥‥そう、だといいのだけれど」
まだ何か言いたそうにじっと私の顔を見る。
どうしたの?と聞こうとして、ふと志津さんに言われていた言葉を思い出した。
「っと、そうだった!乙和さんに呼ばれていたの忘れてた」
「え?ああそう言えば、四郎様も北の方様のお部屋へ向かっていたわ」
「忠信も?そっか、行ってくるね。ありがとう!」
私が手を振ると、釣られて手を振り返してくれるさくらちゃん。
‥‥勿体ないなぁ、三郎くん。彼女はこんなに可愛いのに。
最初の数日はひたすら恐縮して、頑なに「楓様」と呼んでいたさくらちゃん。
再三お願いした成果もあり、ようやく私の希望通りに話しかけてくれるようになった。
友達、と一方的にそう思うのはおこがましいと思う。
けれど、こうして同じ年代の女の子と普通に話せる事が、嬉しくて仕方ないのだ。
立場上友達と呼べる女の子が居なくなってしまったから。
友達になりたい。
そう思うのは、純粋な好意からだけでないのは熟知している。
彼女への罪悪感や後ろめたさが後押ししているのだ。
なのに何も言えない。
そんな私を卑怯で弱いと思う。
いつか、全て話せたらいいのに。
憎まれるかもしれない。
私が若桜さんを追い込んだ本人なのだと知ったら、さくらちゃんは私を拒絶するかもしれない。
‥‥‥それでも。
彼女とは、長い付き合いになりそうな予感がした。
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