「‥‥‥」
三郎くんも、忠信も、沈黙を保ったまま。
いつの間にかさくらさんは私に話しかけていた。
「九郎様が誰か、姉が知っていたのか今となっては分かりません。ですが、姫様付きの女房を探しているとお役人様から伺った時、姉は自ら名乗り出ました」
そう言いながらも、さくらさんの漆黒が語る。
恐らく知っていたのだ。
通っていたあの「九郎」という人物こそが、御曹司なのだと。
その時。若桜さんは何を思ったのだろう。
既に『姫様』が憎かったのか。
初めから、殺したいほど憎いと思っていたのか。
‥‥‥ううん、きっと違う。
『九郎様!私は、──私はただ貴方をっ!』
最後に聞いたあの、悲痛な叫び声が蘇る。
二人が出逢って四年間。
その中で御曹司が通っていたのはほんの一年にも満たない期間で。
だけどそれからも、ずっと。
「若桜さんは、好きだった‥‥‥」
彼女は、忘れられなかった。
ただ、愛していた。
御曹司に嫁ぐ女の世話をすると知りながらも、会える手段が他になかったから。
どこまでも、好きだったんだ。
「‥‥奥方様?」
「ごめん‥なんでも、ないよ」
心配そうにかけられた声にそう返すだけが精一杯だった。
今の私にはきっと何も言えない。
憎んでいない。
でも、「許す」ことも出来ない私。
‥‥悲しい。
「気にするな。妻は少し疲れているだけだ。寝れば治る」
私の代わりに、素っ気無い声が、暖かな気遣いを紡いでくれる。
「も、申し訳ありません!そうと気付かず長話をしてしまって‥!」
「もう話は終わり?まだ残ってるなら明日にしてくれないか」
忠信の気遣いに、瞼がじんわり熱を持った。
「はい!」
「すまない、忠信」
「いえ、また明日」
「ああ。楓殿、ごゆるりとお休み下さい」
「‥‥‥うん」
慌てた二人と退室の挨拶を交わす横顔を、私はぼうっと見ていた。
ごめんね、忠信。
そんな顔をさせたいんじゃなかったのに。
やがて、足音が廊の隅へと消えてゆく。
二人だけの室内は何故か寂しく感じて、温もりを求めて肩に頬を寄せた。
「‥‥‥泣きたい?」
少し前までと打って変わって、優しい声音。
「‥泣かない」
「そう。明日も話があるらしいけど、どうせ若桜のその後だろうし、俺が先に話してもいいけど?」
明日、泣かないように。
今のうちに耐性つけておけ、と言いたいらしい。
「聞かせて欲しい」
「いいよ。‥‥‥あの後、本来ならば斬首になる筈だった。けれど、御曹司と三郎兄上の説得で、島流しの刑に落ち着いた」
「島流し‥‥‥」
肩の力が抜けてゆく。
若桜さんは、生きている。
喜んでいるのか、怖いのか、ごたついた頭では分けられない感情だけれど。
ホッとしたのは真実だ。
「彼女の実家に出向いたのが兄上だった。話を聞いて母親は半狂乱となってさ、このままでは自殺しかねないから一緒に刑に処すことになったらしい」
「‥‥‥そっか」
忠信の腕が私を包む。
安らぐような温かみが、広がってゆく。
「兄上が若桜の妹を連れてきた理由は知らないけど」
「うん‥‥」
「あんな話を聞けば、楓はすぐ情に流されるよね」
「‥‥‥そんな事ないよ」
「ある。今がそうだろ?あの女の気持ちとか考えて、許そうと思っている」
忠信の言葉は真っ直ぐだ。
だから、簡単に涙腺を壊す。
「御曹司を愛していたから何?俺は、忘れない。あんたを失った日の事を」
「‥‥忠信」
「あんたが平泉で死んだから、今、此処にいる。それは分かってても‥‥‥あの女はあんたを殺した」
だから許さない、と。
また、あの顔。
苦しい表情。
「忠信‥っ!」
そんな顔はやっぱり見たくなくて、首筋に思い切りしがみ付く。
そうすると忠信も強く抱き締めてきた。
「許すとかじゃないよ」
「楓‥」
「‥‥ずっと若桜さんが怖かった。でも話聞いて、悲しくて。‥‥でも、でもね」
忠信の言うとおりだ。
あの日、私は死んだ。
御曹司の側室は死んだのだ。
でも、だからこそ。
「だからこそ今、忠信と一緒にいられるのなら‥‥‥少しだけ、感謝もしてるんだよ」
「‥‥‥馬鹿だろ」
弾かれたように面を上げ、こちらをじっと見つめている忠信の優しい表情を発見した。
呆れたように、けれどとても幸せそうに笑う彼を。
「奇妙な奴だな、あんたって」
「‥‥もう、もっと優しい事は言えないの?」
「褒め言葉だろ」
「どこが!」
普段の軽口に、いつの間にか、私もちゃんと笑えていた。
二人だけの褥で、忠信と抱き合ったままクスクスと笑いながら眠りに落ちるのは───少し後の事になる。
ほととぎすが鳴いている、五月の菖蒲草の季節
そのあやめ(文目)もわからなくなる恋を私はしている
(古今集11)
「あやめ(菖蒲)」と「あやめ(文目/道理の意)」をかけています。
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