もうすぐホテルに戻らなければ、父と母が心配するに違いない。
そう頭の片隅で思うものの、足は動かなかった。
動くつもりも、なかった。
───待ち侘びた。
そう言ったきり、目を細めて私を見ていた。
聞きたい事も知りたい事も山ほどある筈なのに、私の喉に塊がつっかえた様に、言葉が生まれない。
ううん、生まれないのではなく。
口を開いたら涙も一緒に零れそうで、怖いだけ。
どうして、なんて分からない。
呼ばれた気がしたから来た。
そんな不確かな感覚だけで動いた私を、御曹司は待っていてくれた。
私が来る、と彼は知っていたかのように。
言い表せない感動が、胸を熱くする。
「ねぇ、御曹司」
「‥‥‥今は、そう呼ぶのか」
「今?」
「いや。‥‥懐かしくてな」
今は──?
最初から御曹司と呼んでいたけれど。
きょとんとした私に、御曹司は更に目を細める。
「そなたといつまでもこうしていたいが、今の私には時間がない。そろそろ話をしても構わぬか?」
「話?‥‥どうして?」
「どうしてとは、奇怪な。その為に此方へ来たのであろう?」
御曹司の言葉の意味に首を傾げるも、そもそも『此処』に彼がいる自体から謎が多すぎる。
話は勿論、聞きたい。
聞かなければいけないことが多すぎる。
でも、それよりも───。
「‥‥‥私を、あっちに連れて行ってくれないの?」
御曹司に逢えば、あの不思議な占い喫茶の店での出来事のように、驚いてる間もなく連れて行ってくれるのだと思っていた。
それを求めていたのに、御曹司はゆったりと首を振る。
「そなたに覚悟があるのか?」
「覚悟‥?」
私よりも少しだけ色彩の濃い瞳に、真摯な光が生まれる。
記憶にある御曹司はあまりこんな表情を浮かべる人ではなかったから、思いのほか見入ってしまった。
感情がすべて連れ去られてしまいそうになる。
「行けば二度と戻れぬ」
体が硬直した。
「私と行けば『藤崎花音』という人物は、消えるであろう。死んだことになるのか、初めから存在せぬ者となるか‥‥私にも見当もつかぬ、が」
「‥‥‥」
ホテルで寝ているだろう、父と母の顔が浮かぶ。
向こうに行って、そしてまた都合よくまた戻ってこれるなんて、思ったことはない。
だけど、心のどこかではそう思っていたのかもしれない。
何故なら今、気持ちが揺らいでしまうから。
私が、いなくなる。
それは‥‥。
「そなたに父御や母御を捨てる覚悟が、あるのか?」
「それは‥‥‥、私‥‥」
口調は変わらずとも、緊張感を含んでいるのに気付く。
途端にこの空間には、恐ろしいほどに強いプレッシャーに包まれた。
顔を上げるのが精一杯で、下手に動くことなど出来はしない。
頷くことも、首を左右に振ることも、簡単に許してくれない。
強い光を見つめた。
もう戻れない、と告げたまま揺るがない眼差しを。
「今の私には、瀕死のそなたを再び呼び寄せる力は残っておらぬ」
瀕死の私?
「前に私を助けてくれたのは、御曹司なの?」
「そうだ」
「『ここ』にいる御曹司?」
御曹司は再び頷く。
予想は外れていなかった。
この人が、私を舘の山へと誘ったこの人が、元の世界へ戻した理由。
それは、私を助けてくれる為だったんだ。
源義経は、平安末期から鎌倉時代に生きていた人だ。
今から九百年位前に亡くなっている。
つまり。ここにいて今私と会話している『源義経』は、死者なのだ。当たり前だけど。
私が若桜さんに刺されたのを知っていて、その上で呼び戻した───と聞いても不思議は無い。
「それって、この時代の医療技術を当てにしたから?」
「少し違う。時を移せば損傷は癒えるゆえ、そうした。だが、そなたの傷は思うより深くてな」
「‥‥だから、事故にあってたんだ‥」
目が覚めたとき病院だったのは、その『癒えなかった部分』が、事故と言う形で今の私に襲ったらしい。
身体はなんともないものの半年も眠り続けたのは御曹司にも誤算だったのか、「寝坊癖はそなたの特権だと忘れていた」と笑った。
「楓には辛い思いをさせてしまった。すまない」
「そんな‥‥‥ごめんって謝るのは、私の方なのに」
顔を上げれば、御曹司は柔らかく笑った。
‥‥また、だ。
記憶にない、こんなに悲しくて慈愛に満ちた表情なんて。
「‥‥‥もう一つ聞いてもいい?」
「ああ、構わぬ」
「私を助けたから、御曹司にはもう‥‥力が残ってないの?」
「‥‥そうか。私だけがそなたを迎えに来た事を不思議がらぬと思うていたが、‥‥そなたは知っているのか」
何故、この場所に御曹司しかいないのか。
四郎も、三郎くんも、どうしていないのか。
「あれから必死で勉強したから」
「そうか」
「御曹司‥‥義経は、神様なんだね」
こちらに戻ってから色々考えた結論を口に乗せれば、俯いた御曹司の肩が震えだす。
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