「楓様ぁっ!!」
「誰か、誰かぁぁぁっ!!」
悲鳴。
涙声。
幾つもの足音。
どくどくと波打つ激しい鼓動。
それら全てに薄い紗がかかっていて、酷く遠く聞こえた。
胸が鈍い痛みを訴える。
酸素を吸おうとすれば突き刺さるような痛みが走り、荒く繰り返す呼吸。
「楓様!楓様っ!しっかりなさって下さいませっ!!」
女房さんの声がするけど、眼を開けるのも痛くて、怖くて。
開けてしまえばきっと、自分の色に驚く。
流れ出た赤い色に、きっと驚いて怖くなってしまう。
私、死ぬのかな。
そう思った瞬間、ほっと肩の力が抜けた気がした。
平成の世界に残していった家族の姿が、瞼の裏に浮かぶ。
お父さん、お母さん。
今でも探してくれているんだろうか。
遠く隔たったこの地で娘が死んだと知る日が来ないのは、幸せなんだろうか。
そう想う一方で、もう泣かなくて済むのなら。
この先、四郎が他の誰かのものになる瞬間を、見ずに済むのなら。
これでもいい、なんて思ってしまう。
‥‥‥なんだ、私、ちっとも覚悟できてなかったじゃない。
御曹司と共に生きる。
そう決心したくせに、四郎を諦めるつもりなんてなかった。
御曹司の事は好きで。
いつか愛したかもしれない。
浮気性の御曹司に振り回されながら、それでも幸せになれたかもしれない。
それを心から望んだのは事実だ。
‥‥‥だけど、真実の願いとは違っていた。
「──楓っ!!」
遠い音の中で、そんな声が光彩を放つように耳に響いた。
私を支えていた腕が離れる。
そして別のぬくもりに、包まれた。
「楓、眼を開けろっ!」
眼を閉じてても。
この匂いも、この腕のもたらす熱も、声も、私には分かる。
「‥‥しろ、‥」
「楓‥‥‥」
瞼を開ければ、涙でゆらゆらと滲む視界いっぱいに広がった、四郎の顔。
今にも泣きそうに、苦しそうに歪んでいた。
「‥‥‥なんて‥顔、して、んの‥‥ばか」
「馬鹿はあんたの専売だよね」
久しぶりに会って、そんな顔が見たかったわけじゃない。
そう続けたいのに上手く言葉にならなかった。
息をする度に胸が痛んで仕方ない。
腕も足も感覚がなくなったのか、四郎が掴んでいる力も酷く朧気で。
なのに、温もりだけは今にも心が熔けそうなほど、伝わった。
「継信!その女を捕らえておけ!」
「はっ」
「九郎様!私は、──私はただ貴方をっ!」
「黙れ!!」
御曹司と三郎くんの声もする。
号泣混じりの、若桜さんの悲痛な声も。
私を刺したのは彼女なのに、不思議と憎いと思わなかった。
四郎や周りにいる人の悲痛な顔を見て、きっと助からないだろうと悟っても。
むしろ、羨ましくさえ思う。
「おんぞ、し‥‥ごめん、‥ね」
「何も言うな。全て解っている」
ごめんなさい。
私、やっぱりダメだった。
四郎の隣に膝を付く御曹司もまた、悲しい表情を浮かべている。
「‥‥四郎」
「喋るなって言ってただろ」
吐き出された声は苦く、揺れた語尾に胸が痛くなる。
「四郎‥‥」
───大好きだよ。
言いかけて、やっぱり口を噤む。
言ってしまえば四郎の負担になるだけじゃない。
私を忘れて欲しくない。
だけど、こんな言葉で四郎のこれからを、縛る気なんてないから。
もう視界の殆どが霞んできた。
強烈な睡魔に襲われて、眼を閉じる。
「馬鹿!楓!──楓っ!!」
最期に呼ぶその名は、四郎に付けられたもの。
結局、どうして『楓』だったのか聞けなかったけれど。
彼の声で呼ばれるこの名前が、好きだった。
だから、四郎の声で聞けて嬉しい。
‥‥‥そう思ったのが、最後の記憶だった。
花と人 お互いに心の通い合うこともないまま
花は散り、私は物思いにふける
(躬恒・後撰集59)
せつな花第一部、了
第二部へ続く
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