男の人が扉を開けた瞬間、懐かしい匂いがした。
記憶の奥に残ってるような、そんな匂い。
手をぐっと引かれるままに、足を一歩踏み出す。
その瞬間、さわさわ、と足首を何かが撫でてゆく。
その感触にゾッとして、確認する為か思わず眼を開けて。
「‥‥‥な‥に、‥‥これ‥?」
───固まった。
目の前に広がるのは、一面の草原。
青く澄んだ空。
雲が殆どない、晴天。
足元に続く若緑の草と、ずっと奥に見えるのは深緑の森。
ああ、そうか。
懐かしく感じたのは、昔に田舎で嗅いでいた匂いだからなんだ。
おばあちゃんと従兄弟達と、虫取りや水遊びをしていた小学生の夏休み。
咽返るような濃い、草や土や水の「自然」の匂いがしていた。
おばあちゃんが亡くなってからもう行けなくなってしまった、懐かしくて優しい土地の‥‥。
なんて真っ先に思ったのは、私の感情が視覚に着いていけてないからだって気付いている。
でも、そのままいっそ現実逃避していたい気分だった。
だって、あまりにもおかしい。
変な看板に惹かれて、古びた喫茶店に入って。
あんな看板を見て占って貰おうと思う自体が、普段の私から考えられないけれど。
中に入れば、恰好良いけどちょっとアレな雰囲気のマスターらしき人の手を、疑いもせず取ってしまった。
そして奥の扉を開けたら、草原?
夢でも見てるんだ。
それなら今の状況も有り得る。
「夢ではない」
くすりと笑う気配がした方向を見れば、男の人が私に笑いかけていた。
全てを見透かすような、深い目に引き込まれそうな気がする。
いきなり変わった言葉遣いにもついていけなくて戸惑った。
「夢ではなく、」
同じ意味をもう一度繰り返して、そっと私の手を引き剥がす。
私は何故か言葉が生み出せないまま、ただ目の前の人を見ていた。
「約束を果たしに来た」
「‥‥‥約束?」
約束も何も、この人には会ったことがない。
なのに、どうして?
この人は泣きそうに笑うんだろう。
「私は一度交わした言葉を違えない。この名に懸けても」
「私はあなたと約束なんかしてないよ。人違いじゃない?」
「‥‥‥ふ、それはない」
何が言いたいのだろうか。
人違いだよ。
私はこの人を知らない。
この人の言ってる意味が分からない。
‥‥なのに、私まで泣きたくなってるのはどうして?
「──を頼む。腹の見えぬ奴だが、根は純粋でな。‥‥‥あなたにしか頼めない」
そう言って頭を下げる彼との間に、ざぁぁ‥と風が吹き抜けてゆく。
反射的に目を瞑って開いた時、彼の着ているものが白いシャツから変化していた。
着物だろうか。
「えっ‥?ま、待って」
「頼む。‥‥楓殿」
勝手に何か、いや、誰かを押し付けたかと思えば、彼の姿はその一瞬後に消えた。
「‥ちょっと、待ってよ」
目の前で繰り広げられた、多分タネのないマジックショーに呆然としたのは束の間で。
「私、楓じゃなくて花音なんだけど‥‥」
何処かズレた呟きを落とした。
だだっ広い草原に一人取り残されたんだと気付いたのは、この数分後。
強烈な睡魔に身を委ねる、その直前だった。
あなたが来たのか私が行ったのか、夢だったのか現実だったのかさえ、わからない
(古今集645)
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