君ならで誰にか見せむ 梅の花
色をも香をも知る人ぞ知る
家族も、友達も、学校も
不意に思い出せば泣きそうになるから。
帰りたいと願っていた。
でも、帰れないと諦めていた。
帰る方法なんて思いつかなくて。
私をこの世界に連れて来た「ハズ」の人は、此処で御曹司と呼ばれている人と何処か違う雰囲気だったな、と気付いたのは最近になってのこと。
今となっては「よく似た他人」だとしか思えない──。
私は何故この時代に来たのだろう。
そんな事ばかり考えても、栓がないのに。
奥州の冬は深い。
豪雪地帯なのだから、雪に殆ど縁のなかった神戸出身の私の予想を超える寒さなのだろう。
‥‥といった予想すら、実際は軽々と超えてしまう極寒。
厳しい寒さと、一面の白。
池も木も建物も、白銀で染められる景色はまさに圧巻の一言なんだけど。
それはもう半端でないレベルで寒い。
特に朝は、布団から出ること叶わない程には。
「手足が冷えて眠れぬ、と先日楓が言っていたのでな。温石でも良かったんだが、人肌が一番温かいだろう?」
目が覚めて一番に、昇りたての朝日よりも眩しい笑顔が至近距離から向けられるこの事態に、私の頭は凍結した。
「そうか、感動で言葉もないか」
と頷きながら、四郎の濡れ羽色より色素が薄い青の髪がさらりと、その端正な頬に落ちてゆく。
‥‥‥ちょっと待て。
「御曹司」
「堅苦しい呼び方は止して義経と呼べ。お前なら許す」
「滅相もない御曹司さん。って言うか私どうしようもなく怒ってるんだけどね御曹司さん?」
「何だ楓は照れているのか?可愛い女は好ましいぞ」
「うん話聞こうね、それとこの手はなんなのかしら?」
「それはだな、あいぃでででっ」
「ただのセクハラでしょ!?」
腕枕していた手と腰に回った手を思い切り捻り上げ、声を上げた所をすかさず布団から蹴り出しついでに部屋からも追い払った。
ここに来てからというものほぼ習慣となった御曹司───源義経に、寝起きを邪魔される事に慣れてしまった私。
普通なら警戒するのかもしれない。
襲われててもおかしくないかもしれない。
男が女の寝所に忍び込むのだ。
タチの悪い悪戯だとは誰も思わず、むしろそういう仲だと納得するのが普通なのに。
本心はどうあれ、表向きは誰一人その線を疑っている様子がないのが不思議。
それは、私もそう。
添い寝以外に何もないと言い切れてしまうのだ。
だから、怒るもののそれ以上に何も感じないのは、なんとなく感じてしまうから。
‥‥‥私に何か求めている気がして。
私にも想像の付かない、何かを。
煌びやかな世界を生み出していた琴が、最後の音を弾いて消えてゆく。
それと同時にくるくる回っていた私もぴたり足を止めた。
ちらり、舞を師事してくれている年配の奏者を見遣れば、彼女は真顔で頷く。
「楓様はお筋が良ろしゅうございますのね。今日はこの辺に致しましょう」
「あ、ありがとうございました!」
「次の稽古には、今の曲を間違えませぬよう期待しておりますわね」
「‥‥あはは」
褒められて喜んだのも束の間、しっかり指導が入ってしまった事には苦笑を浮かべるしかない。
最後に教わった通りに礼を述べ、ようやく稽古を終えたことにホッとする。
早朝から書道に始まり、和歌、琴と、そして今の舞の稽古で‥‥本日の稽古地獄も終わりな筈。
漸く、部屋に帰れる。
はぁ‥と再び息を吐く私を追う様に、パタパタと背後から響く足音。
「楓様!こちらにいらっしゃいましたか!」
「う、嫌な予感‥‥」
渋々と振り返れば案の定というか想像していた人物で。
私の溜め息を助長するのに充分だった。
「‥‥どうしたの、若桜さん」
「西木戸様がお呼びでございます」
「西木戸さん?って確か若様だよね」
西木戸殿とは確か御館の長男・藤原国衡さんの事だ、と、先日習った事を頭の中で復唱した。
庶子とは言え奥州藤原氏の頭領の息子さんなのだ。
そんな身分の人が私に会いに来るとも思えないんだけど。
「一体何の用だろう?」
「御用まではお聞きしておりません。楓様に至急お会いしたいとの事でございますが‥‥お疲れでしたらお断り申し上げましょうか?」
流石、よく気が利くからと御館自ら私につけてくれた女房さんだけはあると思う。
今回だって私の表情から、気が進まないと見抜かれてしまったようだ。
「ううん、いいよ会って来る。どちらにいるの?」
「客間にてお待ちいただいておりますわ」
「ありがとう!じゃぁ」
踵を返した。
否、返そうとした私の腕は、けれどその前にしっかり掴まってしまった。
「お待ち下さいませ。そのお姿で西木戸様にお会いになられるのですか?」
「そうだけど‥?」
やっぱり、というか。
嫌な予感は当たってたのか。
「まぁとんでもない!お召し物をお替え下さいませんと」
「え?でも別にこれでも‥」
これ、と今着ている着物を見下ろす。
御館が用意してくれた衣裳部屋の中で一番シンプルな着物だけど、綺麗な刺繍が細部まで行き渡っていて相当値の張る物だと思う。
それこそ、舞の稽古なんかで着ていいものかと戸惑うほど。
「なりません。ご養子であっても楓様は藤原氏の姫様、西木戸様は兄上様にあたりますもの」
「それはそうだけど」
「初めてお会いなさる兄上様に、失礼のないように致しましょう」
「う、ちょ、まっ‥!」
と、それはそれは綺麗な笑顔で私の右手をぐいぐいと引っ張って行く。
心なしかうきうきしている様に見えるけど、それを口に出して問う気力まではないまま。
何だかただ着替えるだけで済まない気がした。
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