「四郎様」
自室に戻り燭を灯そうとした手は遮られ、俺は溜め息を吐いた。
‥‥またか。
そこに居たのは闇の中で気配を押し殺し、俺の帰りを待ち伏せていた女の甘い香。
見え透いた媚。
時は深夜。こんな夜更けに隠れているのならば、この女は館に仕える者だろう。
一瞬、御館から客人の俺への『花』を届けられたのかと考えた。
『花』とはつまり女だ。一夜妻ともいう。
だが、すぐに否定する。
御館は俺をご存知下さっている。
こんな形で女を与えられる事に、俺が不快のみを覚える性質だと。
「四郎様っ‥!お慕いしております。どうか一夜のお情けを下さりませ」
「悪いが、夜這いはする方が性に合う。一夜の夢ならもっと後腐れない場所に行く。それに」
声に力を籠め、低くする。
「お前の行為は不愉快だ。───次はない」
「ひっ‥‥‥」
「分かったら、行け」
仄かに籠めた殺意に気付いたのか、女は泣きながら走って行った。
こんな夜中に廊に足音を立てるほど怯えたのか、眠りに就く者への配慮が無い。
これだから女は鬱陶しいんだ。
女が泣けば征服欲を満たされ喜ぶ男も居るだろう。
ここぞとばかりに慰め、付け入る男は多い。
一方で三郎兄上の様に、女の涙を前に太刀打ちできず慌てる男も居る。
けれど、俺は。
女の涙を、その女ごと斬り捨てたくなる。
鬱陶しくて仕方ない。
城主の息子として生まれた以上、跡継ぎを作らねばならぬ。
それ故元服と同時に女の肌を知るのは俺達の『役目』だ。
それは分かっている。が、無理なのは仕方ないじゃないか。
「‥‥明日も早いな。余計な事は考えるな」
女の肌を知らぬまま生きてる訳じゃない。
だが他の男の様に、我武者羅に女を欲した事など一度も無かった。
あれ以来、欲しいと思うことすらも。
いや、今それはどうでも良い事だ。
眠らねば。
───そう言えば、兄上はどうなのだろうか。
「役目」と言うならば、兄上にしてもそれは然り。
否。
実際には目下跡取りと見なされている兄上の方が責任は重い筈。
数年前に一度だけ訊ねた事がある。
俺が元服した直後だ。
『兄上の時は如何でしたか?』と。
あの兄上が女にどう触れたのか。
それは好奇心から来た問いであり、‥‥今となっては、あの時の兄上の返事を忘れてしまったが。
‥‥‥いい加減、眠るべきだ。
明日も早朝から鍛錬が待っている。
「あ!しーろーうー!」
「何?朝から喚くな」
「四郎こそ何なの?朝から不機嫌なんだけど」
「‥‥‥別に」
図星を突かれ、首を傾げる楓から眼を逸らす。
昨夜は結局眠れなかった。
あの女のお蔭で余計な事まで考える破目に陥ったのだから。
「ああ、そんな事よりね、今日は三郎くんが弓を教えてくれるんだって」
「ふぅん‥‥‥‥‥‥は?弓?」
「そ。護身術は必要でしょ?って言ったら、すーっごく渋々だけど『弓矢なら楓殿にも扱えるかも知れません。私で宜しければお教え致しましょう』って頷いてくれたから。こーんな顔してたけど」
「っ!ははは!」
眉間に皺を寄せ兄上の真似をする楓。
兄上が如何に渋い面構えだったかを想像し、つい吹き出してしまった。
「‥‥良かった」
釣られて笑う楓の声が、小さく聞き取れなかった。
「何?」
「何にもないよ。あ、三郎くんは弓取りに武器庫に行ってるから」
「そうか。そういや楓、何故こんな早朝に起きてるんだ?」
大鳥城に居た頃から楓は女房に起こされるまで、目覚めるなど殆ど無かったと記憶しているが。
疑問を投げれば、先程の兄上の真似と同じ渋面を浮かべた。
眼が、据わっている。
「ああ‥‥‥何処かのセクハラ野郎の所為だけど」
「‥‥せくはら?」
「セクハラじゃ分かんないか。じゃぁすけべ根性丸出しの象だか牛だかがわざわざ添い寝に来てくださってねぇ。戦ってるうちにすっかり眼が覚めたの」
「助平なら理解できるが‥‥『象だか牛だか』?」
象、牛。
そして添い寝。
‥‥‥ああ、成る程。
「で、その御曹司の姿が見えないけど?」
「私の前でその単語は禁止、ちなみに象牛は簀巻きにして部屋で伸びてるんじゃないかしら」
今度は象牛と来たか。
嫌な事を思い出したのか、腰に手を当てる楓の表情は憤慨の一言に尽きる。
俺は思わず脱力してしまった。
「‥‥あんたさ、仮にも御曹司は清和源氏の血筋を引く尊いお方なんだ。少しは敬意を払えば?」
言った後で、『仮にも』と付けてしまった事に気付き、内心苦笑する。
立場上、楓をたしなめたものの胸の内に微かな苛立ち。
この苛立ちは一体何か。全く意味不明だったが。
「これから敬意を払うよ?だから直接殴ったりしない様に、護身術を身につけるの」
「そうか。護身術‥‥って、おい。まさか」
「やっぱり弓っていいわね。遠隔攻撃でしょ?護身術にもってこいね」
『誰』に弓を引く気だ。
そもそも、御館も御曹司も楓に甘過ぎる。
御館は正式に『養子縁組』をした楓を、実の娘の様に可愛がっている。
それに御曹司。
どれ程嫌がられようが、毎朝楓の寝顔を見に忍んでは殴られる。
明らかな『不敬』と攻められなくもない行為。
たとえ養子と言えど、楓と御曹司では身分が違う。立場を盾に『夜伽』を命じられても、拒否できないというのに。
殴られても御曹司は怒らないばかりか、飽きないらしく次の日も通う。
御曹司からすれば楓は『女』ではなく『妹』の様な物らしい。
他の女と明らかに態度が違う。執着するものの、口説く素振りはない。
まあ、御曹司の周りの女みたいな色気など、楓には皆無だが。
尤も‥‥甘いのは二人だけでなく。
ふとそこで思考を中断し、武器庫から弓を片手にこちらに歩く兄上に会釈した。
「四郎、待たせたな」
「いいえ。俺も今来た所ですから」
「そうか。──楓殿。こちらは軽量で小振り故、然程力は必要ではありません。楓殿でも充分扱えます」
「本当?三郎くん、ありがとう」
嬉しそうに受け取った弓の弦を引き始める楓に向ける、兄上の笑顔。
楓に一番甘いのは、佐藤三郎継信だ。
兄上の背後には更に甘い父上と母上も控えているが。
俺を除く佐藤家の人間は、恐らく楓が平泉の娘になった事を悲しんでいるのだろうと思う。
まだ大鳥城から文は無いが、恐らく。
「いえ‥‥では、早速始めましょうか」
「え?いいよ。四郎も来たし、先に二人で稽古してて。後でゆっくり教えて下さい、ね?」
二人の試合を見てるね、と笑いながらさっさと濡れ縁の縁に腰掛ける。
「‥‥っ、では始めるぞ四郎」
勢い付け頷く兄上の頬が、紅に染め上げられた。
手にした木刀を正眼に構える兄上の、これから訪れる最初の一撃を見定める。
その太刀筋はいつも迷い無く、誰もが手本とする程に正確で狂いも無く。
兄上の人柄そのものの、正面の強さ。
俺は心酔しているが、決して真似など出来ない。
心根も、剣技も。
俺が得意とするのは、正攻法ではないから。
俺の心には誰にも見せられぬ闇を抱えているから。
『兄上の時は如何でしたか』
‥‥ああ、あの時。
兄上はさっきと同じ、真紅に染まっていた。
『‥‥な、何を言う!武士たる者、女人は添い遂げる一人だけで良い。戯れに触れるなど武士の誇りが穢れる。そう父上にも申し上げてご理解頂いた故、お前も二度と言うな』
何を呑気な、と笑い飛ばしながら、その清廉な心を誇りに思った気がする。
俺にはない真っ直ぐな強さ。
女に触れたことの無い兄上。
女は生涯唯一人だけ、と言った兄上。
‥‥そして、今。
濡れ縁に座り真剣な眼差しで打ち合う俺達を見ている女に、甘過ぎる兄上。
視線の先には、俺の調子を狂わせる変な女。
それは確実に、俺の中の何かを目覚めさせた。
手を伸ばせば届くが、伸ばす事は出来ない。
苛立ちに似た‥‥理解不能な、何かが。
天上の風、雲間を吹き閉じてくれ
乙女が天に上ってしまわぬよう
(良岑宗貞・古今集872)
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