三章 下


〜三章・天使は闇から見つめている 下〜

「どうぞ」
「ありがとうございます」
シナモンの香りが、白い湯気とともに漂う。
おだやかな笑顔で差し出された熱いチャイを、俺は両手で受け取り、冷ましながら少しずつ飲んだ。
準備室の中は、窓から差し込む光でまばゆいほどに明るく、静かであたたかだった。
呼吸は正常に戻り、汗もひいていた。けれど、心の中にひりひりするような痛みは残ったままだった。
ヒロト先生が、自分もチャイを飲みながら、やわらかな眼差しで俺を見つめ、尋ねる。
「なにがあったのかな?」
「……」
「話したくないなら、いいんだけど」
「…先生は、自分を嫌いになったことがありますか?」
「…マサキと、喧嘩でもしたのかな」
紙コップを抱える指に力を入れ、俯くと、ヒロト先生は静かな声で言った。
「あるよ。嫌いになったこと」
顔を上げると、悲しそうな表情で窓の外を見ていた。
「…俺は物心がついた頃には孤児院にいたんだけど、顔も見たことのない両親は音楽家だったらしくて音楽の才能が抜群で、周りからプロになることを期待されていて、僕もそのことに対して疑問を感じたことはなかったよ。でも、だんだん周囲の声と、自分の音楽が、噛み合わなくなってきて…うまく折り合いがつけられず、すべてが嫌になっちゃったんだ。おれという存在も、名前も、そっくり消してしまいたい。あの頃は、毎日、そんな風に思ってた」
俺は先生の横顔を見つめ、寂しげな声に耳を傾けていた。
先生は、腕にはめた重そうな時計にそっと手を置き、おだやかな―けれどどこか切ない笑みを浮かべ、呟いた。
「だから俺は、教師になって、ここにいるんだろうね。自分を嫌いにならずにすむように…」
天才と呼ばれ、特別扱いされることが、先生は苦痛だったのだろうか…。俺が、テレビや書評で、白が褒められるたびにぞっとしたように。
「そういえば、玲名は、見つかったのかい?」
先生が、顔を上げ、尋ねる。
「いえ…。音楽の天使くらいしか、手がかりがなくて」
「そっか…」
瞳を曇らせると、先生はまた憂いのにじむ声になり、呟いた。
「もしかしたら、これ以上、玲名を捜さないほうがいいのかもしれないね」
俺は驚いて訊いた。
「どうしてですか」
「もし…玲名が、自分の意思で姿を隠したのだとしたら、捜してほしくなんじゃないのかな」
学生時代、ヒロト先生はある日、不意にみんなの前から姿を消したのだと、瞳子さんが言っていた。
そのときのことを思い出しているのだろうか。声が弱々しく掠れる。
「…真実が必ずしも、救いをもたらすとはかぎらない。知らないほうが幸せなことも、あるんだよ。
特に、芸術家を目指す人たちにはね…みんなとても臆病で、自信がなくて、揺れやすいんだよ。才能があると褒めそやされながら、壁にぶち当たって、苦しんで、苦しんで、どうしようもなくなって…それでも諦められなくて、心を病んでゆく人たちを、大勢見てきたよ。本当に、どうして、そこまで追いつめられなければならないんだろうね…。才能なんて、とてもあやふやなもので、それを測る明確な方法なんて、これまでもこれからもないのに…。才能という幻想は、ときに凶器となって、人を傷つける。美しい音楽は聴き手には平等なのに、それを生み出す者にとっては、そうではないし、その才能が、永遠に続くわけでもない。
天使と呼ばれ、人々の賞賛を一身に浴びて煌いていた歌い手でさえ、今は忘れ去られて…もう、歌うことはないんだよ」
"天使"という言葉を口にしたとき、ヒロト先生の目に激しい苦しみが浮かんだ。
「天使は何故、歌わなくなったんですか?」
先生は、哀しそうに呟いた。
「人が…亡くなったんだよ。ある高齢の音楽家が、天使の讃美歌を聞きながら手首を切ったんだよ」
衝撃的な内容に息をのむ俺に、先生がますます辛そうに語る。
「天使は人を不幸にし、破滅させる…。天使の歌声は多くの人間を死へ追いやり、穢れに満ちてしまった。だから、天使はもう、歌わない。歌ってはいけないんだよ」
手首を握りしめて言い放つ先生は、まるで自分を責めているように見えた。
先生が語った天使は、玲名さんと関わりがあるのだろうか…?
そして先生とも…。いや、もしかするとヒロト先生が――?

『ヒロトは私たちの希望の星だったのよ』
『今に日本を代表するオペラ歌手になるだろうって、言われてたのよ』

先生は、ひどく疲れている様子だったが、なにかを振り切るように息を吸い、テーブルに置いた紙コップを取り上げた。
そうして、俺のほうを見て、淡く、切なく、微笑んだ。
「ねぇ、剣城くん。芸術家としての成功なんて儚いものだよ。俺は、そんなものより、この一杯のチャイのほうを選ぶよ』



【白は、どんな人なのだろう…。
ページをめくりながら、ときどき想像する。
週刊誌では、お金持ちのお嬢様じゃないかなどと書かれていたが、私は、白は普通の人だと思う。家族がいて、友達がいて、大好きな人がいて、そんな幸せで平凡な少女ではないかと。
きっと、優しくて、純粋で、いつもニコニコ笑っているような、素敵な少女…。
白の本は、挿絵の変わりに、きれいな写真がたくさん載っているから好きだ。
青い空、草むら、雨、プール、体育館、水のみ場、鉄棒…あたりまえで、懐かしいものばかりだ。
それから、大好きと言う気持ちや、信じる心や、大切な約束。
胸の中が、澄んだ綺麗なものでいっぱいになる。
マサキも、白を呼んでみたらいいのに。
きっと気に入ると思うのに、前に「白って、マサキと同い歳なんだ。どんな人だろうな」と言ったら、「顔を出せないなんて、きっとすごいブスなんだよ」と、むくれていた。
マサキは口は悪いが、意地悪ではない。いつもは、あんなことをいう子ではないんだが…。
広間にまた、マサキの写真を飾った。少しふくれっつらで、可愛い。
壁一面に、天使の写真と、マサキの写真と、私の写真。それから、青い薔薇。
それを見つめながら、穢れきった私は願う。
マサキが、平和で、幸福でありますように。
私が戻ることを許されない、あたたかな昼の光の中で、友達に囲まれ、心から笑っていてくれるように。
せめて、マサキの恋だけは、叶うように。
白の小説に出てくる、二人の恋を、マサキがしてくれたらいい。】



ヒロト先生は、俺たちに隠し事をしている。
そんなもやもやした想いを抱きながら教室へ戻ったのは、チャイムが鳴る直前だった。
「すまない。急に気分が悪くなって、ヒロト先生のところで休んでた」
シュウが、顔をしかめる。
「大丈夫?」
「ああ。だいぶ落ち着いた」
「そっか。ならいいよ。てっきり…」
シュウが口ごもる。それから、迷うような表情でなにかを言いかけたときだ。
「狩屋くん!」
影山の声に驚いて振り返ると、狩屋が真っ青な顔で机に手をつき、震えていた。
「具合が悪いんですか!?狩屋くん?」
俺も慌てて、駆け寄る。
爪先にコツンと当たるものがあった。床に、見覚えのある携帯が落ちている。
これは、狩屋のじゃ…。
腰をかがめて拾い上げ、開きっぱなしの蓋を閉じようとしたとき、狩屋がすごい勢いで、俺の手から携帯をもぎとった。
「!」
眉をつり上げ、荒い息を吐き、目に涙をにじませ、震えながら睨みつけてくる狩屋に驚いていると、先生が教室へ入ってきた。
「すみません、狩屋くんの気分が悪そうなので、保健室へ連れていきます」
影山が、狩屋を支えて出て行く。狩屋は胸の前で、携帯をぎゅっと握りしめ、なにかに怯えているようなこわばった表情で、俯いていた。
狩屋は一体、どうしたんだろうか。ちらりと見えた携帯の画面に、メールがびっしり表示されていたのが、気になった。
まさか、狩屋のところへも、おかしなメールが来たのでは…!

休み時間になるなり、俺は影山の席まで行き、狩屋の様子を尋ねた。
影山は、困っている顔で答えた。
「その…僕もよくわかんないんですけど、少し混乱してるみたい。『ファントムが…』とか言ってて」
冷たい闇が頭上から落ちてきたように錯覚し、手のひらが汗ばんだ。
「ファントム…って言ったのか?狩屋?」
「聞き間違いかもしれないけど…。でも、狩屋くんが戻ってくるまで、教室で待ったほうがいいかもしれません」
呼吸が苦しくなり、胸が不安に締めつけられる。
あのメールは、やはり、俺が受信したメールと関わりがあるのではないか?狩屋が、携帯を落としてしまうほど、ショックな内容だったのでは。

狩屋が戻ってきたのは、清掃時間が終わったあとだった。
影山たちが取り巻き、「心配したよ」と口々に話しかけるのを、俺はじれったい思いで見ていた。狩屋は、無理をしているようなぎこちない笑顔で、ぼそぼそ言葉を返している。やがて、狩屋は鞄を持って教室を出てゆくと、俺は追いかけて、廊下で呼び止めた。
「狩屋」
細い背中が、びくっと震える。だが立ち止らず、逃げるような早足で、歩き出す。
「待て、狩屋!」
腕をつかむと、泣きそうな顔で振り返った。
「はなして…っ」
「なにがあった?ファントムがどうした?」
「!」
見開かれた目に、はっきりと怯えが走る。青ざめきった顔に、複雑な表情が次々浮かぶ。恐怖、迷い、痛み、渇望、哀しみ。
どうしたんだ?何故、こんなに怯えているんだ?それに、どうして、こんなに哀しそうな…。
混乱する俺に、狩屋は眉根をぎゅっと寄せ、震える声でささやいた。
「なんでもないよ…もう、ほっといて。玲名さんは俺一人で捜すから、剣城くんは、もう、ついてこなくていいよ…」
「だが」
狩屋の目に、透明な涙がたまってゆくのを見て、ますますうろたえる。
狩屋は、声を振るわせ、泣くのを必死に我慢しているような顔で言った。
「だ、だって…昨日、玲名さんの家を見に行ったとき、剣城くん、すごく…辛そうだった…。あんな剣城くんを見るのは、嫌だ。耐えられない。俺、剣城くんの恋人でもないのに、迷惑ばっかりかけて…ごめん。い、今までありがとう。でも、お願いだから、もう放っておいてよ…」
思い切り殴られたように、頭の中が真っ白になり、手から力が抜けた。
迷う俺を見て、狩屋は隣で傷ついていたんだ――。
「マサキ」
アルトがかった声がして、緑川が足音も立てずに現れた。
「司書の先生が呼んでるから、図書室に来てくれないかな?」
「…わかった」
掠れた声で呟くと、狩屋は俯いたまま、緑川と言ってしまった。
途中で、緑川が振り返り、軽蔑しきった冷たい視線を俺を射た。

――偽善者。

足がすくみ、喉がこわばり、一言も発することができなかった。
狩屋の力になりたいと願う気持ちに、嘘はなかった。気弱に泣きじゃくる姿に胸が痛み、どうにか助けてあげたいと思っていたんだ。
だが、中途半端な気持ちでそばにいたせいで、狩屋にあんな辛そうな顔をさせてしまった。
息が苦しく、喉が裂けそうで、自分の存在を消してしまいたかった。本当に、本当に、狩屋を傷つけるつもりなんて微塵もなかった。これじゃあ図書室のときと同じだ。緑川に言われたように、俺は最低の偽善者だ。
世界中の人間から白い目で見られ、非難されているような惨めな気持ちで、廊下をふらふら歩いてゆく。抉られ、空っぽになった心が、ひりひりと痛み、切なさと苦しさに、涙が滲みそうになる。
ダメだ。泣くな。そんな資格、俺にはない。あんなことを、狩屋に言わせてしまうなんて。狩屋は泣きそうだった。
込み上げてくるものを、瞬きして必死にしりぞける。
これからどうすればいいのだろうか。
狩屋は、一人で玲名さんを捜すから、もう関わらないでほしいと言っていた。
けど、あんな状態の狩屋を、放っておけない。傷つけてもそばにいたほうがいいのか。それとも、離れることが狩屋のためなのか、わからなかった。
いつの間にか、俺の足は、慣れ親しんだ三階の西の端にある文芸部へ向かっていた。
そこに、拓人先輩は、いないのに。
幻でもいい。
会いたかった。
拓人先輩に、会いたかった。
冷え切ったノブを回し、部室のドアを開けたとき――。

「こんにちは、剣城」

窓際に置いたパイプ椅子に体育座りし、文庫本をめくっていたのは、肩あたりまであるアッシュブラウンのウェーブかかった髪を持つ"文学少年"だった。




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