三章 上


〜三章・天使は闇から見つめている 上〜

翌朝。教室で顔を合わせた狩屋は、ぶっきらぼうに挨拶した。
「おはよう」
まだ目も赤く、態度もぎこちない。だが俺も、狩屋と同じくらいぎくしゃくしていたかもしれない。
「おはよう…狩屋」
八神玲名は、援助交際をしている。
そのことを、狩屋に伝えるべきなのか。
喉に苦いものが込み上げ、次の言葉を見つけられずにいると、狩屋がためらいがちにコピーの束を差し出した。
「…これ、玲名さんのメールのコピー。昨日、見たいって言ってただろ」
「…ありがとう」
「最近のものだけだし、個人的なことととかは…削除してるけど…」
辛そうに俯き、口ごもる。
「一応、渡しておくけど、見なくてもかまわないから」
「いや、読む」
コピーを受け取るとき指が少しだけ触れ、狩屋がびくっとした。
そんな様子に、また胸が苦しくなる。
このまま狩屋の近くにいていいのだろうか。その答えもまだ出ていないのに。
新たに突きつけられた事実は、容赦なく俺を追いつめ、喉をきつく締めつけた。
乱れる息を必死に整え尋ねる。
「なぁ、玲名さんのバイトって、なんだったか訊いてるか?」
「ファミレスだよ。夜の勤務だから、たまに嫌な客が来るって愚痴ってた」
「……そうか。どこの店かわかるか?」
「ううん。玲名さんは恥ずかしいから来るなって言ってたし。こんなことなら、ちゃんと聞いておけばよかった」
狩屋が唇を噛む。
「じゃあ――」
喉に、たんがからんでしゃべりにくい。俺は冷静に振舞えているだろうか。顔はこわばっていないだろうか。
「玲名さんは、普段どんな本を読んでた?」
「え?」
狩屋が怪訝そうに、顔を上げる。
「深い意味はないんだが、『オペラ座の怪人』以外にも、好きな本があったのかと思ってな…」
妙な質問だと思っているのだろう。目に、戸惑いが浮かんでいる。
だが、狩屋からの答えに、白の本の名前は出てはこなかった。
それに疑問に思ったが、喉の先まで出かかった言葉を、飲み込んだ。
昨日の夜、パソコンで見たウルビダという名前と、愛読者白と書かれた文字が、呪いのように頭の奥に、べったり張りついている。
白の本は、十代二十代の若者を中心に読まれ、記録的なベストセラーとなり、映画もドラマもヒットした。玲名さんが、白を読んでいても不思議ではない。きっとただの偶然だ。
それでも、俺から全てを奪っていった禍々しい名に、反応せずにはいられない。
俺は必死に平静を装い、言った。
「『オペラ座の怪人』とは、だいぶ雰囲気が違うな。そういえば、時間が取れなくて、まだ最後まで読みきれてないが、今、ラウルがクリスチーヌを救出するために、オペラ座の地下に乗り込んでいったあたりだ」
「…そうなんだ」
狩屋が気のない返事をする。それから、迷うように視線を下に向け、唇を噛んだあと、ぼそりと言った。
「俺…もしかしたら、ラウルはいなかったんじゃないかって気がするんだ。彼氏の話は、玲名さんの想像だったんじゃないかって」
俺は内心驚き、尋ねた。
「どうしてそう思うんだ?」
膝の上で爪を落ち着かなげにいじったあと、狩屋は暗い声で答えた。
「不自然だったから…。名前を教えてくれないのもそうだけど、そんな話を聞いたのはあのときだけだったし…。あとさ、ここ二ヶ月くらい、玲名さんと電話で話していると、しょっちゅうキャッチが入ってさ…」
「それ、彼氏からか?」
「…わかんない」
狩屋が顔をしかめる。
「そうしたら、玲名さんは『あとでメールする』って言って切っちゃうんだ。前は、あんなにかかってくることなかったのに。なんかストーカーみたいでさ…」
黒々としたものが、胸にゆっくりと溜まってゆく。
もしかすると、彼らしき人物は、玲名さんの秘密に気づいていたのかもしれない。
それで、何度も電話し、玲名さんが何をしているのか確認せずにいられなかったのかもしれない…。
あるいは、狩屋の言うように、彼が玲名さんの空想とするなら、そのキャッチは、"バイト先”からの呼び出しだったのでは…。
「…だが、最後に玲名さんと電話で話したとき、『彼と一緒に、クリスマスツリーを見てる』って言ってたんだろ?」
狩屋の瞳に、暗い影が落ち、口調が険しくなる。
「そうだけど…あのときも、妙にはしゃぎすぎで、舞台の上で演技してるみたいだって、思ったから」
静まり返った真夜中。携帯電話の向こうで、玲名さんは一人きりで、狩屋に語りかけていたのだろうか?
今、彼と一緒なんだ――。
その様子を想像すると、首筋を刷毛で撫でられたように、ゾクッとした。
「彼は本当にいたのかもしれない。けど、俺に言いづらくて黙ってたのかもしれないって…。玲名さんとの今までのやり取りを思い出して、そんな風に思ったんだ…」
俺の勝手な想像にすぎないんだけど…と、狩屋は苦しそうに呟いた。
そう、全部想定にすぎない。
玲名さんに、彼氏はいたのか?いなかったのか?天使のことも、秘密のレッスンのことも。
彼女が、ウルビダという名で援助交際をしていたことも、まだ確定したわけではない。
それが逃げだとわかっていても、俺は自分に言い聞かせ、狩屋にはまだ黙っていようと決めた。

―君は、知りたくないだけなんだ。

頭の中に響く声に、必死に反論する。
違う。狩屋を傷つけたくないだけだ。それに、"本当のこと"を無理矢理知ろうとする必要があるのか?もしかすると、そっちのほうが悪い結果をもたらすかもしれない。誰も傷つかずにすむなら、そのほうがずっとマシだ。
予鈴がなり、俺たちはそれぞれの席に戻った。

シュウが眉根を寄せ、心配そうに俺のほうを見ていた。


『留守電を聞いた、マサキ。
ごめん。その日は、バイトのあとにレッスンがある。次の土曜じゃダメ?』

『…どうしよう、油断してたら二キロも太ってしまった…。声量をアップさせるためには、もっと太ったほうがいいと天使は言うが、やはりショックだ…。今日から、昼は林檎とおからのクッキーにしようと決めた』

『今日、みんなの前で、"魔笛"の夜の女王のアリアを歌った。
自分でも、驚くほど声が伸び、先生達も驚いていた。一体どんな大歌手にレッスンを受けてるのと、クラスの子に訊かれたから、"音楽の天使"だって答えたら、ぽかんとしてておかしかった。
本当のことなのにな』

『バイトでヤなことを言われた。あの客、最低だ!
けど、学費を稼ぐためだから我慢しないと。音楽って、どうしてこんなにお金がかかるんだろうな。チケットのノルマなんて、考えただけで頭が痛む』

『マサキ、聞いて!今度の発表会で、主格に選ばれた!嬉しい。マサキも絶対に見に来てほしい!』

『了解、クリスマスは、マサキたちのために空けておく。
だが、いい加減マサキも、思い切って行動してみたらどうだ?
大丈夫。マサキはきっと(※以降削除)』

『着メロ、クリスマスソングにした。
"サンタが町にやってくる"
気が早い?』

『ねぇ、マサキ、私は今、最高に幸せで、歌うことが嬉しくてたまらない。天使がいてくれれば、私はもっともっと上手くなるし、歌を好きになってゆくよ』

『マサキは、天使のことが嫌いみたいだね。
私が天使の話をすると、不機嫌そうな声になる。
心配してくれているのはわかるけど、胡散臭いとか、騙されてるんじゃないかとか、そんな風に言われたら、私も気分が悪い。
天使は私にとって、大切な恩人なんだ』

『急にバイトが入った。
ゴメン。あとで電話する。
あまり思いつめるなよ。影山たちも(※以降削除)
いってきます、マサキ』

四時間目の国語は自習だったため、俺は課題のプリントを早々に片付け、玲名さんのメールを読んだ。
最後の一行まで読み終えても、玲名さんが失踪した理由はわからなかったし、天使のことも、多くは語られていなかった。彼氏のことに関しては、一切触れていない。
メールを読む限り、ごく普通の人間に思えるのだが…。
チャイムが鳴り、昼休みになった。
「売店で、パンを買ってくる。先に食べててくれ」
「珍しいね。いつもはお弁当なのに」
「炊飯器のスイッチを入れるのを忘れたんだ」
そんなやりとりをシュウとし、廊下に出たとき―。
ポケットで携帯電話が震えた。
メールが一通届いており、相手は非通知になっている。
中身を確認し、息をのんだ。

『ヤツは。Luciferだ』

なんだ、これ?
迷惑メールか?
携帯でネットに接続し、単語を調べ、愕然とした。
ルシファーとは、神に背いて地獄に堕とされた天使―地獄の王のことだった。
急に息が苦しくなる。
音楽の天使と、堕天使ルシファー――これは、偶然だろうか?それともなにか意図があり、俺に送られてきたのだろうか?
一体、誰が?
ヤツというのは誰を指してるんだ?誰がルシファーなんだ?
頭の中に、漆黒の瞳の少年が浮かぶ。もしかすると、奴の嫌がらせなのでは。どうして俺のアドレスを知っているのかはわからないが、とっさにそれくらいしか思いつかなかった。それに、昨日のことといい、彼に関しては不可解なことが多すぎる。
どうすべきだ。緑川に尋ねてみるか。だが、またなにか言われれば。あんなふうに敵意をむき出しにした目で睨まれたら。
迷いながら、俺は図書室へ行ってみた。
カウンターで仕事をしているのは、別の生徒だった。緊張が解け、ホッとし、教室へ戻ろうとしたとき、閲覧コーナーのテーブルで本を読んでいる緑川が見えた。
心臓が、大きく跳ね上がる。
どうする、どうしよう。胃が裂ける思いで、息を潜め、近づいてゆく。
開いている本を、後ろから覗き見た瞬間、背筋を戦慄が走った。
頭から水を浴びせられたように、全身が一瞬で凍える。
それは、ハードカバーで出版された白の本だったのだ――。
何故、よりによって、白の本を読んでる!
ウルビダのプロフィールが、目の裏にくっきりと浮かび上がる。まさか緑川は、玲名さんについて、なにか知っているのか?いや、考えすぎだ。
硬い唾を飲み下し、俺は声をかけた。
「それ、白だよな?」
緑川が振り返る。俺の顔を見て、嫌な奴が来たとでもいうように、漆黒の瞳をスッと細めた。
見た目は今時の普通の少年のくせに、視線には妙に迫力があり、胃がぎゅっと縮まり、手のひらに汗が吹きだしてくる。落ち着け。体格だって俺よりも小さい。俺と同い年の、普通の少年だ。
「そういうのが、好きなのか?」
緑川は、冷え冷えとした声で答えた。
「いいや、大嫌いだよ。この本も、白もね」
その言葉に、胸を切りつけられ、地の底に叩きつけられた。
見じろぎもできずにいる俺を、毒を含んだキツイ眼差しで見据えたまま、憎々しげに続ける。
「小学生の作文みたいな低脳な文章で、吐き気がしそうな甘ったるい単語をずらずら書き連ねているだけの、駄作だよ。主人公の能天気さと偽善ぷりが、誰かさんにそっくりで、胸糞が悪いね」
野良犬のようにぎらぎらと光る目。侮蔑に満ちた言葉。
それは、以前に俺が、クラスの奴らの前で吐き出した言葉と、同じだった。

『そんな本の、どこがおもしれーんだ?文章下手で、構成雑で、頭の悪い小学生が書いたポエムを読まされてる感じで笑っちまうよ』
『賞とったのが十二歳の女子だったからって、物珍しくて騒いでただけじゃねえのか?』
『俺は白なんか大嫌いだ』

そう、俺も確かに、こいつのように思っていた。
こんな本、最低で、何の価値もないのだと。俺なんかが、誰からもちやほやされているのは、なにかの間違いなのだと。
この世で一番、白が嫌いだと。

「こんな隅々まで透明で、善意にあふれた、おキレイな世界を、よくまぁ恥ずかしげもなく書けたものだね。この本に書いてあることは、嘘ばっかりだ。こんな風に、人の心でもモノでも、表面しか見えてなくて、自分がお日様に照らされて、路の真ん中を堂堂と歩いてるって信じてる奴が、無邪気に人を傷つけて追いつめるんだ。君や、ヒロトや、白みたいにね」

他人から面と向かって、"白"を否定されたことはなかった。そのことがこんなに胸に突き刺さり、痛くてたまらないなんて。こんなに動揺しているなんて――。
足がふらつき、倒れそうになり、俺は「邪魔してすまなかった」と言い、逃げるように図書室を出た。
情けなくても、惨めでも、これ以上彼に悪意に満ちた視線で見つめられ、真っ黒な言葉の刃で、切り刻まれることに耐えられなかった。
白の本が、全部嘘っぱちなんて、俺が一番よく知っている。
現実は、あんなに優しくも、美しくもなく、願いも約束も、一瞬の儚い夢でしかないのだと。
平和な日常はあっけなく崩壊し、指を絡ませあって微笑みあった二人は、離ればなれになり、思い出は惑乱を引き起こす毒にしかならないのだと。
全身を駆け抜ける痛みと熱を、どうしたらいいのかわからない。
白なんか嫌いだ。あの本も白も、本当は汚くて、嘘まみれだ。
そんなこと、わかってる。っわかってるんだ!
人気のない廊下で、壁に手をつき、俺は浅い呼吸を繰り返した。冷たい汗が吹きだし、悪い風邪を引いたように、ゾクゾクと寒気が這い上がってくる。
そのままへたり込みそうになったとき、誰かが俺の肩に触れた。
「どうしたんだい?剣城くん」
顔を上げるとヒロト先生が、俺の後ろから支えるようにして立っていた。
「……先生」
「顔色がとても悪いよ。保健室へ行くかい?」
眉をひそめ、心配そうに尋ねる。俺は弱々しく首を横に振った。
「平気です。すぐ、おさまります……」
先生がますます眉をひそめる。
「平気、という顔じゃないね。保健室がいやなら、準備室に行こう。これは教師命令だよ。つきあって」







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