Epilogue


〜エピローグ・ともだち〜

劇が終わったあと、控え室代わりの教室へ訪ねてきた空野は、真っ赤に充血した目で、けれどどこか吹っ切れた、すっきりした表情で言った。
「たくさん迷惑をかけてごめんなさい。もう、シュウには会わない…。わたし、一人になるのが怖かったの。わたしの両親は喧嘩ばかりしていて子供の頃からお誕生日はいつ一人で過ごしていたから。一緒に誕生日を祝ってくれる人がいてほしかったの。けど、今は、一人でも平気。あなたたちの劇を見て、そう思えたの」
「僕のほうこそ、ゴメン」
シュウが空野に頭を下げる。
空野も…シュウも…やはり、少しだけ寂しそうだった。
「二人に見せたいものがあるんだ」
拓人先輩が明るい声で言い、どこかの中学校の文集を差し出した。
「本当は、劇がはじまる前にシュウに読んでほしかったんだが、マサキが倒れて、ばたばたしていて、渡しそびれてしまってな。栞のページを読んでみてくれ」
シュウが怪訝そうな顔で受け取り、すみれ色の栞がはさんであるページを開く。
俺たちも、横からのぞき見る。
すると、手書きのタイトルと名前が、目に飛び込んできた。
「これ、もしかして、シュウの妹の作文ですか?」
拓人先輩が微笑む。
シュウと空野が、むさぼるように読みはじめる。
その作文は、一人の少女のほのぼのとした光景が綴られていた。そして作文を読むシュウと空野の顔に、切なさの混じった笑みが浮かぶ。
拓人先輩が、優しい声で囁いた。
「俺が舞台で語った未来には、"本当のこと"も、少しだけ混じっていたんだ」
教科書を切り裂くことでしか、自分を見てもらえる方法をわからなかったシュウの妹は、新しい土地で、穏やかに過ごしたいたのだ。
シュウの妹はもう、不幸ではなかったし、誰も恨んでいなかった。過ぎ去った日々を、あたたかな記憶として、胸に抱いていた。
それを知ったとき、きっとシュウも、空野も、朗らかで安らかな気持ちになれたのだろう。
そう、夕暮れの空に舞う蜜柑を見るように――。
二人ともそういう顔をしていた。
そして立ち去ろうとする空野を、シュウが呼び止める。
「葵、あの子ヤギのマスコットは、君への誕生日プレゼントのつもりで、あの子に選んでもらったんだ。それも"本当"だった。君の家の前を通りかかったとき、庭で一人で泣いている君を見かけたときから、僕は葵のことが好きだったんだ」
空野は目を少しだけ潤ませ、微笑んだ。
「ありがとう。さよならシュウ」


空野が出て行ってすぐ、入れ替わりで霧野先輩がやってきた。
「お疲れだったな!舞台、よかったぞ、神童!たっぷり堪能させてもらったから、この俺に、メイドの格好でカレー屋のウェイトレスとさせたことは、許してやるよ」
「はあ!?ウェイトレス!?あんた、したんですか!?メイドの格好で?」
「俺が神童の頼みを断ったことがあると思うか?あ、そうだ、神童、お前のところの超次元天パ野郎が、カレー屋に来てたぞ」
「天馬が?」
「ああ。ぞろぞろ女子を引き連れてな。全く相変わらずだな、あいつ。オーダーをとりにいってやったら、『世にも恐ろしいものを見ちゃったよ』なんて、目を丸くして、のけぞるし、椅子の足を蹴飛ばして、転ばしてやったな」
そう言って、嫣然と微笑む。
この人が、メイドの格好して『いらっしゃいませ』なんて言ったのかと思うと、松風の発言に大いに共感することができた。そんなことを口にしたら、俺も蹴り飛ばさせるかもしれないが。
「すまなかったな、霧野。劇のことも、他のことも…。霧野がいてくれて本当に助かったよ」
普段は、徹底的に霧野先輩を避けている拓人先輩が、珍しく素直にお礼を言い頭を下げる。
やはり文集は、霧野先輩がコネを駆使して手に入れたものを、拓人先輩に渡したらしい。
だが、"代償"はなんだったのだろうか?
霧野先輩が、満足そうに目を光らせる。
「やっと俺の愛が伝わったのか?今、頼んだら、脱いでくれるか?」
「誰が脱ぐものか!」
拓人先輩が真っ赤な顔で叫ぶと、ニヤニヤした。
「あ〜あ、残念だな〜。ま、いいや。"代償"は、しっかりもらったからな」
拓人先輩が絶句する。
霧野先輩は、俺の方へ顔を寄せ、囁いた。
「このあとメインホールで、オーケストラ部のコンサートがあるから、剣城も、ぜひ来てくれよ。楽しいものが見られるからな」
「なっ、なんてことを言うんだ霧野!」
着物の袖を振り回してうろたえる拓人先輩に、親愛に満ちたウインクを投げ、霧野先輩は出て行った。
「ねえ、楽しいもの、ってなんだろうね?」
後ろでやりとりを聞いていたフェイが、首を傾げる。
「き、気にしなくていいことだぞ、フェイ。気にするな!剣城も、オケ部のコンサートなんて絶対に行くなよっ」
そのあと、大急ぎで制服に着替えると、クラスに戻らなければならないというフェイやシュウと別れ、コンサート会場の音楽ホールへ走った。
俺のすぐ後ろを、制服に、少しボサボサな髪の拓人先輩が、追いかけてくる。
「なあ、本当に行くのか?どうしても行くのか?それより、俺と、あんみつを食べに行かないか?」
「拓人先輩は、食べられないでしょう」
「それじゃあ部室で、尊敬する先輩のために、あんみつ味のラブストーリーを書いてくれるのでもいいぞ」
「文化祭の最中まで、先輩のおやつの面倒を見るのは嫌です」
「なんで、そんなにオケ部のコンサートに行きたいんだ?」
「拓人先輩こそ、どうしてそんなに息を切らして、後をついてくるんですか」
「だ、だって――」
拓人先輩が走りながら、両手で握りこぶしを作り、顔と肘を左右に振り、いやいやをする。そんな風に言い合っているうちに、中庭のホールに辿り着いてしまった。
「だ、ダメだっ!入ったらダメだ剣城〜っ!!」
拓人先輩が俺の制服の袖口をつかみ、必死に引き止めようとするのを、チケットを購入し、そのまま中へ入る。
するとロビーに、見上げるほど大きな看板が飾ってあった。
それは、拓人先輩の写真を拡大したものだった。
タンクトップにミニスカートに、チアガール姿の拓人先輩が、手にポンポンをもち、笑顔で飛び跳ねている。髪は付け髪かウィッグかわわからないがツインテールになっており、霧野先輩の趣味なのか、霧野先輩の希望なのか、大きな眼鏡をかけている。
もちろん男なわけなのだから、薄いタンクトップに覆われた胸はぺたんこで、裾から白い素肌が、ちらりとのぞいている。へそが見えそうで見えないという際どいアングルで、一方、めくれ上がったスカートも、ギリギリ下着が見えるか見えないかと言った位置でとどまっていた。真っ白な足が、膝をそろえて折った状態で、宙に浮いている。
中世的な顔立ちのせいか、パッと見、普通に女子に見えるのがまた恐ろしい。
そして看板の横に、"雷門中オーケストラ部がきみに贈る、未来へのエール"というコピーがついていた。
なるほど、これが今回の"代償"か。
そういえば、前に、今のようなボサボサの髪の拓人先輩が、忙しそうに走ってゆくのを見かけたことがあったな。あれは撮影のあとだったのだろうか。
納得して見上げる俺の横で、拓人先輩が首筋から耳まで真っ赤にして呻く。
「ち、違うんだ…これは、俺じゃないんだ。別のクラスの俺のそっくりさんなんだ。頼む、見ないでくれ…っ、見るな、剣城」
俺は、ニヤリと笑った。
「へえ、拓人先輩にそっくりの女子なら、相当拓人先輩って女顔なんですね」
とたんに、頭を殴られた。
「そんな言い方はひどいじゃないか!なんて思いやりのない後輩だ。ハンカチ貸してやるんじゃなかった」
「あれは、俺のハンカチです。ほら、コンサートはじまっちゃいますよ。それに目立ってますけど」
ロビーにいる人たちが、「ねぇ、あれ、看板の…」とささやいているのに気づき、拓人先輩は、俺の背中に頭を押しつけて、俯いてしまった。
「は、早く客席へ行こう、剣城」
これはこれで、目立ってるんですけど…。
服で両手でひっしとつかまれ、顔を埋められて、背中に感じる温もりを、ほんの少しくすぐったく思いながら、仕方なく歩き出す。
「ぅぅぅ、もう、絶対、霧野なんかに頼みごとはするものか〜〜」
拓人先輩は、席に着いてからもずっと唸っていた。
「そういえば、熊狩りをしている恋人は元気ですか」
ふと思い出して尋ねると、目を丸くして真っ赤な顔になり、のけぞった。
「な、なななななんのことだ?」
「北海道は冬が早いから、そろそろ白いマフラーが必要でしょう」
「うぅ」
「チャペルで式を挙げるときは、招待状を送ってください。往復航空券つきで」
拓人先輩は頬を染めたままおろおろし、気弱な目をしたり、睨んだりしてきた。
「つっ、剣城って、本当に根性悪いな」
やがて、幕が上がり、雷門中が誇るオーケストラ部のコンサートがはじまった。
燕尾服に身を包みタクトを振る霧野先輩は、実に生き生きとし、楽しそうだった。


感動的なコンサートが終わって外へ出ると、校庭は柔らかな夕日に染まっていた。
『閉会式を行いますので、生徒の方は体育館に集合してください』
橙色の空に、実行委員のアナウンスが流れてゆく。
拓人先輩と別れ、一度教室に戻ると、シュウが一人で窓際に立ち、外の景色を見つめていた。

「シュウ」
「剣城……」
シュウが顔をこちらへ向ける。俺は、彼の側まで歩いていった。
「閉会式、行かないのか?」
「文化祭が終わってしまうのが、妙に寂しくて。ここで、たそがれてたんだ」
「お前が、そんなこと言うとは思わなかった」
開いた窓からひんやりした風が吹いてくる。
教室の中は、夕日と同じ色に染まっている。
「だが、俺もお前と同じだ。なんだか胸に隙間ができたみたいだ。嫌な感じではないが…朝から内心ハラハラしどおしだったが、楽しかった」
シュウが微笑む。
「そうだね」
心を許し合っているような空気が心地よく、ずっと浸っていたくなる。
「俺…中学生になってから、こんな風に学校行事に一生懸命になったことって、なかったんだ。そういうの面倒くさいから、適当にやり過ごせばいいと思ってた。だが…お前と舞台に立ててよかった」
「僕も、剣城と似たようなものだよ。文化祭も、球技大会も、学校生活自体が僕にとっては果たすべき義務に過ぎなかったんだ。こんな風に、仲間と一緒になにかをすることを、楽しいと感じたことなんてなかった。こんな気持ちに慣れたのは、神童先輩と剣城のおかげだね」
「お前から台詞を引っ張り出したのは拓人先輩だ。俺は、なにもしてない」
「いや、剣城が一緒に立ち向かおうと言ってくれなかったら、僕は舞台へ向かう前に逃げ出してたよ」
「そうでもない。きっとあんたは逃げなかった。…けど、あんたの手助けができたのなら、嬉しくないわけないけどな」
シュウは清々しい顔で笑っている。それは、痛みを乗り越えた人間にしかできない笑みだった。彼は自分の手で鎖を断ち切り、未来へ向かって歩み出したのだ。
そして俺も――。
「シュウ、俺はあんたと、友達になりたい」
シュウが、かすかに目を見開き、驚きの表情を浮かべる。
「俺は、他人と深く関わることを避けていた。昔、辛いことがあって、もう人と関わることで傷つくのは嫌だと思っていた。きっと俺とお前は似ていた。だが、今、俺はあんたと関わりたいと思う。友達になってくれるか、シュウ」
見開かれた黒い瞳が、そっと伏せられ、困っているような表情になる。
「…僕は、まだ剣城に話せないことがあるんだ。いつか、剣城を傷つけるかもしれない」
彼のその告白は、俺を驚かせた。
一体、シュウは、どんな秘密を胸に秘めているんだ?
疑問が次々湧いたが、俺はいつもどおりに言ってみせた。
「かまわない。お前が話したくないなら、ずっと秘密のままでもいいさ」
シュウが顔をあげる。
男らしい端正なお顔に、再び驚きが広がってゆくが、それは心の中になんとかおさめた。
俺は、右手を差し出した。
「友達になろう。いつか喧嘩しても、別れても、今、お前と友達でいたい」
シュウが目を見開いたまま、俺を見つめる。
その視線を、俺は素直に受け止める。
傷ついても、傷つけても、新しく生まれるものがある。育ってゆく絆がある。
それを信じて――。
シュウが、優しく目を細めた。
そうして、手を差し出し、俺の手を強く握りしめる。
熱く火照った彼の右手を、俺もしっかりと握り返す。
確認の言葉は必要ない。
もう、俺たちは、友達だった。



【君に手紙を出すのは、久しぶりだね。
この二ヶ月の間君から何通も手紙を受け取りながら、返事をすることができなかったことを、許して欲しい。
君からの手紙には、再三、会いに来るよう書いてあり、君が苛立っていることは十分承知していたけど、会いに行けない事情があった。
正直に言えば、僕は君と向かい合うのが怖かったんだ。
君に出会ったのは、去年の冬。一年生の三学期だった。
僕はたまたま、病院に入院していた君と知り合ったんだ。
君は、廊下でたった一人で、歩く練習をしていた。
何度も躓いて転んでは、また立ち上がり、よろめきながら歩き出し、また転び、また歩き出す。思い通りにならない体に、君はひどく焦れているようで、何度も悔しそうに独り言を言い、少し泣いているようだった。
そのとき、ほんのわずかに見えた泣き顔が気になって、それから僕は毎日のように、曲がり角に身を潜め、君が歩く姿を見つめながら、なかなか声を掛けることができずにいた。
ところがある日、いつものように、廊下で転んでしまった君は、床に膝を着いて這い蹲ったまま、ひどく苛立たしそうに言ったのだった。
「お前、いつもそこで、こそこそ見てるな。俺は見世物じゃないぞ」
あのとき、僕がどんなに驚いたか、わかるだろうか。
そうして、顔を上げて、僕を睨んだ君の瞳が、激しい怒りと憎しみに燃えているのを見て、胸を鋭い刃物で疲れるような思いがしたことも――。あのとき、僕が完全に、君に捕らわれてしまったということも――。
謝罪する僕に、君は冷たい言葉を浴びせ、僕を遠ざけようとした。
それからあとも、僕が君に会いに行き、君に話しかけるたび、君は不愉快そうに僕を遠ざけようとした。
君の手助けをしようとすると、火のように怒り、自分はなんでも一人でできるし、僕なんかに哀れまれたくないし、手を貸してもらいたくもないと主張した。
君が起こるのを承知で告白する。
僕は、はじめ、君に、昔僕が傷つけた少女を重ねていたんだ。
その少女は、僕は小学校のときの同級生で、空野葵という名だった。君にもいつか、この話をしたことがあるだろう。
僕は君に罵られるたび、彼女に責められているような気がしていたんだ。そうして、そのことで、少し救われていた。
なぜなら僕は、責められて当然の人間だと思っていたから。
少し複雑な話になるけど、当時、僕は中学で再会した葵の隣にいた。
でも葵は、昔の葵じゃなく、現在の葵を一人の異性として好きになることが、僕はどうしてもできなかった。また、それは葵に恋をしていた先輩への裏切りであるという事実も、葵への想いに、ブレーキをかけていたのかもしれない。
葵は自分に気持ちが向いていない僕を、詰ることも恨み事を言うこともせず、一緒にいられるだけでいいんだと、すがるような目で見つめてきた。僕に頼り、僕を信じていた。
卑怯なことに、僕はそんな葵を重く感じていた。そうして、そのことでさらに、激しい罪悪感を味わっていたんだ。
だから、昔の葵を思い起こさせる君の顔に、僕に対する嫌悪が浮かぶたび、僕は胸が千切れ、喉を締付けられるような痛みを感じながらも罰を受けることで許されているような気がして、安堵していたんだ。
そうして、君にますます惹かれていった。
君ははじめ、僕のことを毛虫のように嫌うだけだったけど、僕が雷門中の一年生であると知ってから、僕が来るのを待つようになった。そうして、僕に学校でのことをあれこれ尋ねるようになった。それは、君の心の中に鋭い痛みと共に住み続けている人物について、僕から情報を得るためだった。
彼が、君を深く傷つけ、君の未来を奪ったのだと、君は憎しみに燃える目で、僕に語った。
僕が二年生に進学し、彼とクラスメイトになったときから、僕と君との関係は以前より密接になり、同時に、僕にとって耐え難いものに変化していったのだ。
なお悪いことに、君は、病院で彼に会ってしまった。
夏休みに入る少し前、僕が君の病室を訪ねると、君は真っ青な顔で、彼が病院に来ていたことを話した。
彼はクラスメイトのお見舞いに来ていたようだった。君は、彼と一緒にいた人物は誰なのか?お見舞いの相手も、彼と親しいのか?どんな関係なのかと執拗に尋ねた。
あのときから、君の様子はおかしくなっていった。
ぼんやりと窓の外を眺めているかと思ったら、急に怒り出したり、ひどく苛々したり、泣き出したり、叫び出したり、僕に打ちかかってきたり。
ある日、僕が君に会いに行ったら、君はベッドで便箋を、細かく引き裂いていた。
それは君が手紙を書きたいというから、君に頼まれたお店で、僕が買ってきたものだった。
君は、そのお気に入りの便箋で彼に手紙を出すつもりだったんだろう。
おそらく君の中で、何らかの葛藤があり、君は書きかけの手紙を破いてしまったんだろう。
手紙を破く君の目は、抑えられない苛立ちと憎しみに、ぎらぎらと輝き、唇はよほど激しく噛みしめたのか、血が滲んでいた。頬には、泣いた痕があった。
そうして、あろうことか、君は僕に、彼への復讐の手助けをするよう迫ったんだ。
それが懇願ではなく、脅迫に近いものだったことは、君も自覚してると思う。
君は、僕を味方に引き入れるために、あらゆる手段を用いる覚悟でいたし、言うことをきいてくれないのなら手首を切って死ぬと叫んだり、僕に淫らな行為を仕掛けたり、言うとおりにならない僕を臆病者と罵ったり、ものをぶつけたりした。
そうして、僕が病院へ行くのをやめると、毎日のように手紙を寄越すようになった。
君にとって、これだけの文章を書くことが、どれほど根気と労力がいることかわかりすぎるほどわかっている分、便箋にびっしりと打ち込まれたワープロの文字と、封筒に書かれた、たどたどしい手書きの宛名は、僕はますます追い込んだ。
封を切らず放っておけばよかったのに、絶望的なことに、僕はすでに、葵の代わりとしての君ではなく、君自身に想いを寄せていた。
君が本当に、自らの命を絶つ行為に走るのではないか。
そう思うと胸が潰れそうだったし、実際君ならそうしかねないという認識があったから、苦しみは増すばかりだった。
また、ひょっとしたら君が哀れしみにくれているのではないか、一人で泣いているのではないか、僕に助けを求めているのではないかと思い、封を切らずにいられなかったんだ。
いつか僕は、君の願いを叶えることが、僕が過去に犯した過ちへの贖罪なのではないかとさえ思うようになっていった。
なにも考えず、君の意志だけを聞き入れ、君のためだけに生きること。それができればどんなに楽になれただろう。
実際、僕は一度、君から来た手紙を、彼の靴箱に入れようとしたことがある。そうすれば踏ん切りがつくのではないかと思って。
けれど、それはしてはいけないことだという理性も、確固たる巌のように僕の中に存在していて、結局、手紙は破り捨ててしまった。
誠実な人間であること。
過去のあの事件以来、僕が心にそう決めて生きてきたことは、君にも話したと思う。僕は、どんなときも誠実な人間であらねばならなかったし、他人を傷つけることは二度とあってはいけないことだった。
なのに、君は、僕にそれを求めたんだ。
僕に、クラスメイトを裏切り傷つけろと。
そんな願いは聞けない。それは誠実じゃない。けれど、君から届く手紙の内容は苛立ちと激しさを増す一方で、そんな中、僕の対応のまずさから葵が次第におかしくなっていって、僕は追いつめられていった。
どうにかして、葵を救おうと焦っても、空回りするばかりで、葵の行動は常軌を逸し、狂気の域に達しようとしていた。
僕は君に書いた手紙を、君にではなく、ほかの誰かに宛てて出すことで、かろうじて自分を支えてきた。
しかもそれも限界だったし、狂気に堕ちてゆく葵を救うことができず、こんな状況でも君を想わずにいられない自分が、最低の人間に思え、頭の中が真っ暗になるほど絶望していた。
こんな僕では、君に会う資格はないと思っていた。病院に足を運んでも、君の部屋を訪ねることができなかった。
この二ヶ月間、僕も、苦しんでいたんだ。決して、君を放り出したわけじゃない。勝手な言い分だけど、そのことだけは、どうか察して欲しい。この二ヶ月は、少なくとも僕にとっては必要な二ヶ月だったんだ。
葵のことが解決して、過去から自由になった今、ようやく君に手紙を出すことができる。
結論から言うよ。
僕は、彼を罠にはめたり、貶めたりすることはできない。
なぜなら、彼と友達になったから。君を大切に思うように、彼を大事に思う。
いつか、君とのことで、彼を傷つけてしまうかもしれない。けれど、僕は僕の友達に、この先も、出来る限り誠実に接したいと思ってる。彼に対して策略を張り巡らすような卑怯な真似はしたくない。
僕はそれを、はっきりと、君に宣言するよ。
二ヶ月の間、そんな簡単なことを伝えることができなくて、僕は、君の手紙をカッターで切り裂いたり、自分自身を切りつけたりといった愚かな行為を繰り返してきた。君への返事を、誰かに出し続けた。
多分、今も僕は愚かなままだ。
けれど、ある人が、僕に教えてくれた。
人はみな、もともと愚かなのだと。
ならばせめて、心に理想を持ち、行動し続ける愚か者であれと。
なので、僕は、愚かである自分を認めて、その上で君や彼に向かって、踏み出そうと思う。】



文化祭から一週間が過ぎた。
俺たちの劇は好評だったようで、中庭の妖怪ポスト、否、恋愛相談ポストに、『とってもおもしろかったです。胸がキュとしてしまいました』『武者小路実篤の本を読んでみたいと思います』などという応援メッセージが、ちらほら投げ込まれ、拓人先輩はご機嫌だった。
ポストから持ってきたメモを、指で千切っては口に運び、
「美味しい!苦労して収穫した、もぎたての甘い桃や葡萄の味がするな〜。心とおなかに、爽やかに染みていく感じだ〜」
と、目じりを下げっぱなしでうかれていた。
一方で『ナースさんのコスプレも見たいです』『次は、野島クンと大宮サマのLOVEモノでお願いします』なんて手紙も混じっており、それもしっかり食べながら、
「ぅぅ、やっぱりヘンな味だ…。栗きんとんに、マヨネーズをトッピングしたみたいな…イカの薫染に、コンデンスミルクを振りかけたみたいな…とにかく嫌な味だ…」
などと、べそをかいていた。

「シュウは、その後どうだ?」
放課後、部室へ行くと、パイプ椅子に足を載せて文学小説を読んでいた拓人先輩が、尋ねてきた。
「元気にしてますよ。先輩が、昨日部室に、『悪かった』って謝りに来てくれたって言ってました。それと、来週、弓道の試合があるから、応援に行く約束をしてるんです。それから、映画の趣味があうこともわかって、今度、一緒に見に行こうと」
テーブルに原稿用紙やペンケースを置きながら、あれこれ話すと、
「そうか」
瞳を優しく和ませ、すみれの花が開くように口元をほころばせる。
俺は胸の奥が、少しくすぐったくなった。
そこへ、狩屋が、ひょっこりやってきた。
「あの…失礼します。文化祭では、その、心配をかけてスミマセンでした。えっと、クッキー、また焼いてきたんです。お詫びに、食べてください」
拓人先輩が頭を下げながら、俺のほうをチラッと見て、赤くなる。
「ありがとう、マサキ。じゃあ、剣城といただくな。マサキも一緒にどうだ?」
「えっっっ、あのっ、俺、今日は図書当番の日ですから。もういかないと」
「そうか、残念だな」
「また今度な、狩屋」
そう言ってやると、狩屋は目を丸くしてますます赤くなり、
「じゃ、じゃあ失礼しますっ」
と言って、早足で出て行ってしまった。そんな狩屋を、ちょっと可愛いと思った。
綺麗にラッピングされたクッキーの包みを胸に抱えた拓人先輩が、下からすくいあげるように俺を見て、いたずらっぽい目で問いかける。
「こら、剣城、マサキとなにかあっただろ?」
「秘密です」
「あ、やっぱりなにかあったんだな」
声を張り上げ、頬を膨らませる。
そのうち狩屋と、ちゃんと話をしたほうがいいんだろうな…。小学生のとき、俺たちがどこで会っているのか。
「なあ、剣城。先輩にだけ、こっそり教えてくれ」
「プライベートな質問には、お答えできません」
「む、やらしいな…」
「なんですか、それ。なに考えてんですか」
拓人先輩は「内緒なんてズルイぞ」と言ってすねていたが、クッキーの包みをおろして、寂しそうな顔で呟いた。
「俺は……マサキや、みんなに、嘘をついているんだな」
不意に放たれたその言葉に、胸がズキッとした。
拓人先輩がリボンをほどき、包みを広げる。花柄のナプキンの上に、星やハートの形をしたクッキーが、にぎやかに盛られ、狭い部室に、砂糖とバターの香りが漂った。
拓人先輩にはなんの味もしない、甘いお菓子―。
ほっそりした指で、星の形のクッキーをつまむと、拓人先輩は口の中に放り込み、モグモグと租借し、にっこり笑った。
「これはきっと、トラヴァースの『メリー=ポピンズ』みたいな味だな!甘くて、さくさくしていて、トッピングのアーモンドが香ばしいんだ!」
軽やかに言い放ち、クッキーを次々口に運び、リズミカルに噛み砕いては、笑顔で飲み込んでゆく。
「こっちはウェブスターの『あしながおじさん』みたいな味だ!レモンの香りが爽やかに舌の上に広がるんだ!これはバーネットの『秘密の花園』みたいな味だな!薔薇色のジャムが、甘くて、酸っぱくて、とてもロマンチックなんだ。こっちの紅茶の葉っぱ入りのクッキーは『不思議の国のアリス』か?ちょっと渋みがきいているところが、最高に美味いな!」
クッキーの味を"想像"で語る拓人先輩は、どこまでも晴れやかで、前向きだった。
みんなに、決して打ち明けることのできない、秘密。
"人とは違う"という暗い想いを胸の奥に秘めながら、拓人先輩は、甘い菓子の味を想像し、幸せそうに笑う。
"文学少年"は確かにここに存在し、俺たちと同じように、笑ったり、すねたり、泣いたり、逆立ちをしようとして失敗したり、チアガールの格好で飛び跳ねたり、誰かを励ましたり、落ち込んだり、立ち直ったりしている。
俺はパイプ椅子に座り、テーブルに置いた五十枚綴りの原稿用紙の表紙をめくった。
そうして拓人先輩にもわかる甘い味の"おやつ"を書きはじめた。
そう、今日のお題は、"ともだち""トモダチ""友達"――。



【この手紙が君の手に届く頃、僕は君を訪ねよう。
そして、手紙では書ききれなかった気持ちを君に語り、君の心を今も占め続ける剣城京介と友達になったことを、僕自身の口からも、はっきり君に伝えよう。              
  シュウ

天登白竜様】




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