七章 下


〜七章・"文学少年"の願い 下〜

野島は杉子にプロポーズをするが、杉子の返事はノーだった。
大宮が海外から送ってくれた、ベートーベンの顔を模した石膏のマスクを顔に押し当て、ステージの中央にしゃがみ込み、俺は野島の気持ちで、むせび泣いた。
失恋なんて、本当にするものじゃない。
希望が一瞬にして打ち砕かれ、世界が闇に覆われ、心がずたずたに切り刻まれるこの耐え難い痛みを、どうやってやり過ごせばいいのか、わからない。
神よ、何故、俺から、たった一つの大事なものを奪ったんだ。
白竜、お前を今も忘れられない。お前を思い出すたび、息が止まり胸が裂けそうになる。何故お前は、俺を拒絶し、遠くへ去ってしまったんだ!
舞台に闇が落ち、上手に大宮が、苦痛に満ちた顔で立つ。淡いライトが彼を照らす。
『尊敬すべき、大いなる友よ。自分は君に謝罪しなければならない。全ては某同人雑誌に出した小説を見てくれればわかる。よんでくれとは言えない。自分の告白だ。それで僕たちを裁いてくれ』
舞台の中央にうずくまる俺の上に、スポットライトが落ちる。俺は手製の雑誌を、むさぼるように見下ろし、ページをめくっていった。
下手に、杉子が現れ、思いつめたような眼差しを、上手に立つ大宮へと向ける。
そうして、淡いスポットに照らされて、大宮と杉子が、同人誌に掲載された手紙の内容を、交互に語りだす。

『大宮さま、怒らないで下さい。わたしが手紙を書くのにはずいぶん勇気がいりました』

大宮への恋心が、拓人先輩の澄んだ声で切々と語られる。
それに対して、大宮はかたくなに杉子を拒み、どうか親友の野島を受け入れてほしいと訴えるのだ。

『あなたはまだ野島のいい所を本当には御存知ないのです。野島の魂を見てほしく思います』

『大宮さま、わたしを一個の独立した人間、女として見て下さい。野島さまのことは忘れて下さい。わたしはわたしです』

『あなたは僕を理想化している。僕の処に来たと仮定しても、それはあなたにとって幸福ではない』

『あなたは嘘つきです。本当に嘘つきよ』

緊張感に満ちたやりとりが続く。
拓人先輩の声が情熱を帯び、ライトに照らされた頬が赤く燃え立ち、瞳が熱く潤んでゆく。
逆に、シュウの表情は、どんどん暗く硬くなってゆく。
『僕はなんと返事していいかわかりません。僕は迷っています。野島に相談したい。だが相談する勇気はない。野島はあまり気の毒です』
一言発するたびに、シュウが苦しそうに眉根を寄せる。硬く握りしめた拳が、震えている。
シュウの痛みが、苦しみが、俺の胸に突き刺さる。
誠実であらねばらならないという自分への戒め、決断することへの恐怖。
過去の出来事が、シュウの心を、がんじがらめに縛りつけ、ぎしぎしと締め付ける。
そんなもの負けるな。その戒めを、断ち切れ。
あんたは、悪くない。
あんたは、誠実だった。
だからどうか、前へ進んでくれ。

『僕はこの手紙を出すまいか、考えた。出さないほうが本当と思う。だが―』

台詞が止まった。
シュウは、顔をゆがめ、目を見開き、ひどく衝撃を受けている様子で、客席を凝視していた。
前から三列目の、ちょうど真ん中あたりに、喉に包帯を巻いた空野葵が座っている。
俺も、息をのんだ。
空野は苦しそうな顔で、シュウを見上げている。
シュウは小さく開いた唇をわななかせ、硬直している。それから目をぎゅっと閉じ、両手で頭を抱え、短い呼吸を繰り返した。
こんな状況で、よりによって空野の前で、今のシュウに、ずっと言えなかった大宮の台詞が言えるわけがない。
駆け寄りたくても、ステージの上ではどうにもならず、胸が押し潰されそうになったとき、澄んだ声が流れた。

「ねぇ、大宮さま、わたしの話を聞いてくださいますか?」

杉子が――。
いや、拓人先輩が、ステージの中央に進み出たのだ。
なにをする気なんだ!拓人先輩!
打ち合わせにない動きに、ライトが慌てたように、拓人先輩を追いかける。
「この物語は、あなたがこれから決断の助けになる重要な"真実"を含んでいるわ。どうか耳をふさぐことなく、しっかりお聞きになって」
まばゆい光の真ん中で、灰茶色の髪を揺らし、星のように煌く目をして、拓人先輩は語りはじめた。もちろん、杉子を演じたままであるから、口調は女口調であるが。
「主人公の少年は礼儀正しく誠実で、文武両道に秀でた優等生よ。
残る人物は二人。どちらも少年の同級生よ。一人は少年に妹である黒髪の少女。もう一人は、どちらかといえば無愛想な、冷たい目をした短い髪の少女。
二人とも少年のことが大好きだったわ」
シュウが顔を上げ、驚きの表情で拓人先輩を見つめる。
空野も目を見張り、困惑の表情になる。
観客は、演技の一つだと思っているのだろうか?怪訝そうな顔をしながらも、拓人先輩の声や動きに引き込まれている様子で、舞台に見入っている。
一方、俺もステージの上から、拓人先輩を見つめていた。
痛みと嘆きに満ちたシュウの物語を、"文学少年"は、どう読み解くつもりなんだ。
拓人先輩は、シュウから台詞を引き出せるのか?
「黒髪の少女は、誰とも仲がうまくいかず、悩んでいたわ。少年は彼女の悩みを聞いてあげ、兄として、一人の人として、励ましていたのよ。
そんな二人を、短い髪の少女は、いつも少し離れた場所から、悔しそうに睨んでいたわ。だから少年は、短い髪の少女は自分のことが嫌いだと誤解していたのよ。
本当は、冷たい目をした少女も、少年のことが好きでたまらなかったのに、黒髪の少女と少年が、兄妹であるのにも関わらず、優等生同士のお似合いのカップルに見えて、素直になれなかったのね」
本筋とはまったく関係が内容に思われる物語に、観客はじっと耳を傾けている。
体育館の中は、夜の森のように静まり返り、そこに拓人先輩の澄んだ声だけが流れてゆく。
「短い髪の少女には、欲しいものがあったわ。それは、子ヤギのお人形よ。この子ヤギは恋のお守りで、持っていると、好きな人と両想いになると言われていたの。短い髪の少女は、子ヤギが飾ってあるお店の前をうろうろしたり、お母さんにおねだりしたりしたんじゃないかしら?そうして、やっと子ヤギを手に入れたの。
これで少年が振り向いてくれるかもしれない。短い髪の少女は嬉しくてたまらなかったわ。けれど、黒髪の少女も、同じ子ヤギの人形を持っていたのよ。
しかもそれは、少年からプレゼントされたものだったの。
短い髪の少女は、悔しくて哀しくてたまらなくて、黒髪の少女を、池に突き落としてしまったわ」
主人公の少年がシュウを、黒髪の少女がシュウの妹を、そして短い髪の少女が空野を指しているのは、明らかだった。途中から空野は手を膝の上でぎゅっと組み、辛そうに俯いてしまった。
拓人先輩が、言葉を続ける。
「けれど、少年が想いを寄せていたのは、やはり妹である黒髪の少女ではなく、短い髪の少女のほうだったのよ」
「!」
空野が、弾かれたように顔を上げる。
俺も唖然とした。
少年が、短い髪の少女を好きだと?それはシュウが小学生の頃、空野を好きだったってことなのか!?
シュウは目を見開いたまま拓人先輩を見つめている。それが校庭の表情なのか、否定の表情なのか、わからなかった。
拓人先輩が微笑む。
「信じられない?大宮さま?わたしの話を、"文学少女"の妄想だとお笑いになる?わたしは、なんの根拠もなく語っているわけではありませんわ。
ここで注目すべきは、子ヤギの人形よ。
少年は別の友人に、それは誕生日のプレゼントだと告白したわ。女の子の集まるお店に一人で行くのは恥ずかしかったので、黒髪の少女と買いに行って、選んでもらったのだって。
これだけ聞くと、少年が頃髪の少女の誕生日に、子ヤギの人形を贈ったように思えるわね?けれど、それは有り得ないのよ」
凛とした目を客席に向け、拓人先輩が断言する。体育館の中はますます静まり返り、みんな固唾を飲んで、拓人先輩の次の言葉を待っている。
空野は、石のように固まっている。
「ここでヒントを一つ差し上げるわ。黒髪の少女が少年の妹であるなら、少年は黒髪の少女の誕生日を知っていた。黒髪の少女は春生まれなのよ。でも、少年が黒髪の少女と隣の席になったのは、夏休みのあと。少年が子ヤギの人形を彼女に送ったのは、秋の終わり頃よ。誕生日までだいぶ先だわ。
では何故、少年は友人に『子ヤギは誕生日のプレゼントだった』と言ったのかしら?
少年が嘘をついた?
いいえ、その子ヤギは、もともと他の人の誕生日プレゼントだったと考えられないかしら?少年が一人でお店に行くのが恥ずかしくて、黒髪の少女に、別の誰かへのプレゼントを選ぶのを、つきあってもらったのだって。
そして、短い髪の少女の誕生日は秋で、しかも彼女は、その子ヤギをずっと欲しがっていたのよ」
舞台を凝視する空野の顔に、強い驚きが浮かんだ。
それはシュウも同じだった。
振袖に袴着の拓人先輩が、軽やかな語り口で物語を展開してゆく。
重く苦しい物語が、しだいに淡く優しい色に染められてゆく。
「ねぇ、大宮さま?あなたはいつも、わたしに冷たく接してらっしゃたけど、だからこそ、わたしはあなたが気になってたまらなかったわ。あなたのそっけなくされるたびに哀しくなって、一層あなたに惹かれていったわ。
この少年も、わたしと同じだったんじゃないかしら?遠くから睨みつけてくるだけで、決して近づいてこない短い髪の少女が気になっていたんじゃないかしら?
そうして、少女がふとした折りに、弱さや優しさを見せたとき、いつもと違うその顔に、恋をしてしまったんじゃないかしら?わたしは、そんな風に想像するわ」
いつか、夕暮れの通学路で、シュウが語った言葉を、俺は思い出していた。

―相手の意外な一面を見せられると、気になってしまう。普段は強気で意地っ張りな人が、一人で泣いている姿を見てしまったときとか。

驚きを露にして拓人先輩を見つめていたシュウが、そっとまぶたを伏せ、切なそうな顔をする。空野のことを、思い出しているのだろうか。
拓人先輩の口調も、しんみりしたものになる。
「子ヤギの人形は、短い髪の少女への誕生日プレゼントだった。けれど、短い髪の少女が同じものを持っていたので、少年はそれを彼女に渡すことができなかったんじゃないかしら?そうして、用済みになった子ヤギは、黒髪の少女の手に渡り、彼女のものになったの。もしかしたら、黒髪の少女が『わたしがもらってあげる』と言ったのかもしれないわ。いいえ、黒髪の少女は、短い髪の少女が子ヤギを持っていることを、はじめから知っていたのかも……。
なぜなら、黒髪の少女にとっては、短い髪の少女は恋敵だったから。
なので、自分ものになった子ヤギを、少年からもらったのだと言って、見せ付ける真似をしたのかもしれない。あくまでも"想像"にすぎないけれど―、女はどんなに小さくても、女だわ。そういうことをしてしまうことが、あるのよ、きっと」
眉を下げ、瞳を潤ませ、哀しそうな顔をしながら、拓人先輩は続きを語った。
「黒髪の少女は少年の前から姿を消すことを決め、その前に、短い髪の少女に会いに行って、少年からもらった子ヤギを、少年に返してほしいと言って渡すの。そうして、ごめんなさいと謝るのよ。
何故、黒髪の少女は、直接少年に、それを返さなかったのか?短い髪の少女にわざわざ預けたのか?このことからも、黒髪の少女は少年が誰を好きかを知っていて、子ヤギを自分のものにしてしまったことを、申し訳なく思っていたんじゃないかと感じるのよ」
いつの間にか――空野は切なそうな表情で、拓人先輩を見つめていた。
三年前、小学生だった空野は、子ヤギの首を切断し、シュウに送りつけた。
けれど、しかたがない。彼女もじゅうぶん苦しみ、傷ついていたのだから。
拓人先輩が振袖を、ばさりとひるがえし、シュウのほうへ向き直る。
「ねぇ、大宮さま?一体、今の話が、自分にどんな関係があるのかといぶかしく思ってらっしゃるかもしれませんわ。けれど、彼らの物語には、あなたが、今、ご自分の力で新たな未来を切り開くための、大切な真実が隠されているわ。
大宮さま、あなたは、わたしを受け入れることを恐れていらっしゃるわ。
それによって、変わってしまう未来を恐れてらっしゃる。
あなたの決断が、全てを崩壊させ、狂わせてしまうのではないかと、心底から怯えていらっしゃるわ!
そう、誰よりも誠実でありながら、結果的に二人の少女を傷つけてしまったあの少年のように、自分も愚かさゆえに"間違った"選択をしてしまうのではないかと、恐れていらっしゃる!
けれど、大宮さま!傷つき、離ればなれになった彼らの未来が、暗く厳しいものだと誰が決め付けることができるの?それどころか、彼らの前には、輝かしい未来が開けているかもしれないのに!」
シュウの顔に、衝撃が浮かぶ。
その顔をまっすぐに見つめ返し、"文学少女"…いや、"文学少年"は、高らかに、力強く、語り上げた。
「本を閉じれば、物語は終わってしまうのかしら?いいえ!それはあまりにも味気ない読み方だわ。あらゆる物語は、わたしたちの想像の中で無限に続いてゆくし、登場人物たちも生き続けるのよ。
わたしたちは、その物語を、明るい光に満ちたものにすることも出来るし、哀しく切ないものにすることもできる。だから"文学少女"であるわたしは、彼らの未来が素晴らしいものであると想像するわ!
姿を消した黒髪の少女は、新しい土地で、哀しみから立ち直り、きっと生まれ変わった気持ちでやり直すことができたに違いないわ。
短い髪の少女は、また哀しいことが起こって、大事な人を失い、自分も傷つくことになったけれど、でも、それはきっと未来に復讐されているだけで、このあと彼女は信じられないような幸福な体験をいくつもするのよ。彼女は毎日の生活を楽しみ、前向きに努力し、多くの人が彼女を愛し、彼女もその人たちを心から愛するでしょう」
雲の切れ間から差し込む一条の光のように、強く優しい声が、凛と呼びかける。
「ねぇ!大宮さま!
わたしたちは、様々なものに繋がれているわ。家族に、友人に、恋人に、怒りに、喜びに、哀しみに、憎しみに!
それらはすべて、その人にとって必要なもので、それを断ち切ったら、生きていけないと思うかもしれない。けれど、人は、母親と自分を繋ぐ緒を断ち切ることでこの世に生まれてくるのよ。一度、断ち切らなければ、踏み出せない未来もあるわ。
無茶苦茶に壊れてみて、傷ついてみて、はじめて知ることができるものがある。見えてくる風景がある。心がある。
わたしが先ほど語った物語は、人間の愚かしさや哀しさを語る物語であると同時に、"再生の物語"であり、"はじまりの物語"だわ!これから、素晴らしい未来が手を広げて待っている。そんな物語よ!そして、わたしたちのこの物語も――!」
拓人先輩の頬に赤みがさし、瞳が星のように鮮やかに煌く。
語る声が、澄んだ希望に満ちてゆく。
そんな拓人先輩の語る未来に、シュウはただただ驚きの眼差しで耳を傾けている。
客席の空野は、震えながら泣いている。
「かの有名な白樺派の文士の小説に登場する、ご立派な真理先生のことを、あなたはご存知?美と真理を追究する彼は、こう言っているわ。人生は参りきったものではないと、本当のことはわからないと!辛抱できないことがあるときは、泣くだけ泣けばいいと!辛抱できることは僕等を再生させる力はない。人生に辛抱できないことがあるので、人間は再生できるのだと!
真理先生を世に送り出したこの文士は、たくさんの物語を通して、人の持つ強さと善意を歌い上げ、人を信じ、人を愛し、飾りのないまっすぐな言葉で、再生の物語を書き続けてきたのよ!
もちろん、時には他人どころか、自分自身さえ信じられなくなることがあるし、挫折することも、参りきってしまうこともあるわ。誰だって、その人なりの痛みや悩みや苦しみを抱えている。悩みのない人間なんていない。苦しんだことのない人間なんていない。一度も失敗したことのない人間なんて、この世にいない!
だって、人間なんて、みんな愚か者なのだから!
わたしも、あなたも、あらゆる創作上の人物も、この世に生きる生身の人々も、みんな、どこかしら愚かな部分を持っているわ。
人が愚かでなきゃ、芸術も文学も生まれない!そう、わたしたちは、皆、誰も彼も愚か者なのよ!
学校も、社会も、愚か者の集まりよ。そのことを、あなたはまず、認識すべきだわ!」
長い、長い夜が明け、悪夢からゆっくりと目覚めるように、シュウの瞳から暗い影が消えてゆく。
硬く張り詰めていた頬が和らぎ、すべての痛みと苦しみを洗い流したあとのようなすっきりとした表情が、顔に浮かぶ。
拓人先輩は、それはもう全力で語っていた。
タイトの明かりが、暗い闇の中に、拓人先輩の姿を鮮烈に照らし出す。
艶を帯びた灰茶色の髪や、汗で濡れた額や頬や、首筋が、夜空の星をちりばめたように、きらきらと輝いている。口紅で桜色をした唇が一瞬も止まることなく、強く、あたたかな言葉を紡ぎ続ける。
「賢くなろうとするあまり、あれこれ思い煩って、立ちすくんでしまわないで!あなたを繋ぐ鎖に囚われないで!
未来は明るく素晴らしいと、お目出たい想像をしてみて!想像がゆきすぎて失敗してしまうことも、惨めな思いや恥ずかしい思いをすることもあるかもしれないし、誤った想像で他人を傷つけることは、もちろんいけないことだわ。けれど間違って転んだら、また立ち上がって、歩き出せばいい!
苦しい思いをしても、それは、あなたが未来に、今、復讐されているだけなのだから、がっかりしないで。どうせ、わたしたちは愚かなのだから、どんなときも、心に理想をかかげる愚か者であって。
愚かでもいい。あなたはあなたらしく、あなたの声で、あなたの言葉で、あなたの想いを、あなたの真実を、存分に語って!あなたの心で、あなたの行く道を決めて!」
頭の中に、あたたかな夕暮れに染まった空が浮かぶ。
晴れやかで、やわらかな、橙色の空――。
そこに、鮮やかに色づいた蜜柑が、一つ、二つと、投げ上げられる。
拓人先輩の白い手が、頭上に上がる夕空に、次々と蜜柑を投げる。
みっつ、よっつ、いつつ。
陽気な笑顔で、優しい瞳で、ふわふわと髪を揺らして、澄んだ声で笑いながら――。
心に溜まる鬱屈が、甘酸っぱい香りの中に溶けてゆく。
シュウの口元が引き締まり、目に決意の光が浮かんだ。
『僕は、手紙を出す。野島よ、許してくれ』
低く、だがはっきりと、ささやかれた言葉。
それはシュウの過去への決別だった。
俺も、そして空野も、それを聞いた。
空野はもう震えていなかった。頬を涙で濡らしていたが、顔を上げ、祈るような瞳でステージを見つめていた。
背筋をまっすぐに伸ばすと、シュウは拓人先輩の方へ勢いよく右手を差し伸べ、情熱に燃える眼差しで叫んだ。
『わが愛する天使よ、パリへ武子と一緒に来い。お前の赤ん坊からの写真を全部送っておくれ。俺は全世界を失ってもお前を失いたくない。だがお前と一緒に全世界を得れば、万歳、万歳だ』
拓人先輩の唇がほころび、香り立つような微笑みが顔中に広がってゆく。
長い灰茶色の髪が羽のように広がり、シュウに向かって駆け出す。
ライトが拓人先輩を追いかける。
そうして、シュウを照らすライトと、拓人先輩を照らすライトが一つに重なり、溶けあい、拓人先輩は幸せでたまらないと言う顔で両手を広げ、体当たりする勢いでシュウの胸に飛び込み、抱きついた。
『ありがとう!ありがとう!大宮さま!ありがとう!』
本当ならここは、微笑を浮かべた杉子がゆっくりと大宮に歩み寄り、大宮も杉子のほうへ近づき、杉子が大宮の手に自分の手をそっと乗せ、二人で目と目と見交わし微笑みあうというシーンだった。
けれど、拓人先輩はよほど嬉しかったのだろう。
いきなり抱きつかれたシュウは目をむいたが、すぐに晴れ晴れとした顔になり、拓人先輩をそっと抱きしめ返した。
流れ的には、文句なしの名シーン、名演技となったわけだが、それを目の前で見せつけれられた俺は、正直、妬けた。
はしゃぎすぎだろ、拓人先輩。
胸の奥がチクチクして、悔しいような切ないような気持ちになったのは、俺が野島の気持ちに同調していたせいだろうか。
舞台が暗転し、幸せな恋人達を闇の中に隠す。
ステージの中央にしゃがみこみ、広げた同人誌を見下ろしたまま愕然とする俺を、頭上から落ちるライトが、孤独に浮かび上がらせる。
大宮は友情と引き替えに最愛の女性を得たが、野島は親友と愛する女性を一度に失ってしまった。それは耐えがたい痛みであり、絶望であり、苦しみだ。
けれど、拓人先輩が言っていたように、断ち切らなければ踏み出せない未来がある。
壊れてみて、傷ついてみて、はじめて知ることができるものがある。見えてくる風景がある。心がある。
暗闇の先には、新しい世界が開けていることを。
すれ違っても、罵りあっても、叩き壊しても、離れても、傷ついても傷つけても、いつかまた手を取り合える―そんな関係もあることを。
だから俺も、決断することを、もう恐れない。
俺は同人誌を引き裂いて立ち上がると、大宮から贈られたマスクを、ステージに叩きつけた。
石膏で作ったマスクが音を立てて割れ、白い欠片が飛び散る。
客席に向かって、俺は叫んだ。これまで俺を繋いできた、重い鎖を断ち切るように。
『僕は一人で耐える。そしてその淋しさから何かを生む。いつか山の上で君たちと握手する時があるかもしれない。しかしそれまでは君よ、二人は別々の道を歩こう』
膝から力が抜け、再びステージに崩れ落ちる。
ライトが次第に淡く暗くなり消えてゆく中、頭を抱えてうなだれ、俺は低い声で呻いた。
『自分は淋しさをやっと耐えてきた、今後なお耐えなければらならないのか、全く一人で。神よ助け給え』
そう、この先も、俺は一人でベッドに潜り込み、泣くことがあるだろう。
後悔も絶望もするだろう。
こんな苦しみは耐えられない――そんな風に思うこともあるだろう。
それでも、人は泣くだけ泣いたあと、立ち上がり歩き出すんだ。
そこから本当の物語がはじまるのだ。
闇の中にうずくまる俺の耳に、体育館を揺るがす、沢山の拍手と歓声が聞こえた。






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