八章 下


〜八章・嵐の少年 下〜


「―彼は――デモーニオは、君と鬼道の弟なんだ、不動!」

デモーニオははじかれたように、フィディオの方へ顔を向けた。
「何をバカなことを言ってんだっ!」
唸る不動さんを、フィディオが底光りのする目で睨み据える。腹を押さえ、体を前にかがめ、足を引きずりながら歩き出す。
「―っく、俺は、デモーニオから聞いたんだっ!君が、デモーニオに食事をさせ、もう二度と会わないといって屋敷から出て行ったあの日―デモーニオは、ゴルフのクラブを振り回して部屋中のものを叩き壊すほど錯乱していた。…くっ……それくらい、君に去られたのがショックだったんだっ。デモーニオは俺にしがみついて、いろんなことを口走っていたよ」
「やめてくれ―フィディオ!」デモーニオが訴える。
フィディオは時折ベンチシートにもたれ、荒い息を吐きながらも通路の間を進んでくる。そうしながら、容赦ない苛烈さで、デモーニオに問いかける。
「ねえ、デモーニオ?君が、俺に、言ってくれたんだよね?あの人は俺の本当のもう一人の兄さんなんだって。兄さんが、二人の血を受け継いでる俺を守るために、他の人と結婚したんだって。兄さんがが不動と結ばれてしまえば、俺が財閥の力に自由を奪われてしまうからって…」
「やめてくれ…っ」
「…っ、兄さんが愛していたのは、不動だって」
「やめてくれ!フィディオ!もうやめろっっっ!」
デモーニオが泣き出す。フィディオは叫んだ。
「君が言ったんだよ、デモーニオ!不動も血の繋がった兄だって―!君が―君が、俺に言ったんだ!」
「やめろおおおおおおおおおおおおおお!」
とうとうデモーニオは、両手で耳をふさぎ、首を横に振り、しゃがみこんでしまった。
目を見開き茫然とする不動さんに、拓人先輩が哀しそうな声で告げる。
「…フィディオが言ったことは本当です。鬼道さんが教室に残した暗号に、それを示す言葉がありました。"22 4714 43 14 45 36 19 45 14 43 14 39 25 29 35"――"不動と俺の弟を守る"と……」
不動さんが、喉の奥から獣のような唸り声を上げる。まだ信じられない―いや、信じたくないと、激しい葛藤を繰り返す彼に、最終宣告を下したのは霧野先輩だった。
一人壁際に立ち、静かな眼差しですべてを見つめていた霧野先輩は、淡々とした口調でしゃべりだした。
「当時、鬼道有人は、後見人である影山零冶の管理下にあった。父親が外国から拾ってきた、昔生き別れた兄弟と駆け落ちなどしたら、子供ではないにしろ、二人と同じ血を受け継ぐ弟が日本に連れてこられ、財閥の力に縛られてしまうことなんて予想ができた。だから、財閥の力を衰えられないほどの地位と権力を持った者を、早急に探さなければならなかったんだ。
鬼道さんの考えは、恐ろしく身勝手で浅はかだ。俺は鬼道さんを弁護しようなんて一欠片も思わない。二人と同じ血を受け継いでいるだけで、二人の子供と同じだなんて考えを持った母親の愛情のじみたゆがんだ愛情の出した結論だったわけだ。それを知らずに関わってきた人々は、迷惑極まりなく気の毒だったと言うしかないな」
棘を含んで語られる言葉の数々は、揺らぐことのない冷徹な眼差しと相まって、突き刺さるような説得力を感じさせた。
不動さんは、真っ青な顔で目を見開いている。彼が感じている衝撃が、俺にも伝わり、背筋を冷たい汗がこぼれた。
愛し憎んでいた人間と自分が、血の繋がった兄弟であったなど――。それはなんという絶望だろう。彼が悪魔に魂を売り、時間を巻き戻してまで手に入れたものは、実の弟を穢したという罪だけだったのだ。
デモーニオは床にうずくまり、自分で自分の体を抱きしめてすすり泣いている。
拓人先輩が、デモーニオにそっと語りかけた。
「デモーニオは…不動さんが本当の兄だって、知っていたんだな?鬼道さんからの伝言をデモーニオに渡したのは、家政夫の源田さんだな?鬼道さんが子供の頃読んでいたジョージ=マクドナルドの『昼の少年と夜の少女』の中に、そのことが書いてあったんだろ…?
地下の部屋の本棚で、マクドナルドの全集を見た。『昼の少年と夜の少女』だけがなく、別の出版社から文庫で出ている『軽いお姫様』が置いてあった。マクドナルドの童話全集は絶版になっているから、同じ本をそろえることができなかったんだな。
何故『昼の少年と夜の少女』だけがなかったのか?図書室で、デモーニオがその本を読んでいたって、剣城から聞いた。本の表紙の裏側に数字が書いてあったと…。それと、家政夫の源田さんが、デモーニオの誕生日に、鬼道さんから預かっていた箱を渡したことも…』
デモーニオが細い肩を震わせ、嗚咽する。
「…っ、兄さんは、ひどい人だ…っ。あんなに優しかった人を、ずっと裏切っていたなんて―俺が、あいつの血と同じ血が流れているって―あの本には、兄さんのそいつへの気持ちが、いっぱい書いてあったんだ…。愛している…愛している…たとえ体が滅びても、魂はいつもお前の側にいる…お前は俺で、俺はお前なんだって…俺は自分自身より、お前が大事だった…だから、お前と一緒にいられると言う喜びと引き換えにしてでも、お前と同じ血を受け継ぐ弟に輝かしい未来をあげたかったって…お前は本当に頭もよく、身なりに気をつければ、誰にも負けないくらい素敵で、勇気も忍耐力もあるんだからなって……」
声を震わせてすすり泣くデモーニオの姿は、絶望に満ちていた。
「…ひっく…兄さんは、何故、あの本を、俺に残したんだ。『鬼道の"き"から』って書いたヒントの紙まで入れて…なんで、俺に、あんなことを教えようとしたんだ?
俺が兄さんの身代わりになって、暗号を教わっているなんて、兄さんは、考えてもみなかっただろうな…アンナヒントを貰わなくても、俺は、すらすら読めたんだ。兄さんが、他の人に書いたラブレターを俺は、読んでしまったよ。心から愛されていたのに。兄さんはずっと裏切っていたんだ。…っく、兄さんは最低だ…」

―俺も、どこか別の世界へ行けたらいいのにな…。この本の女の子のように…俺も、昼の世界へ行けたら良かったのに…。

―…それは、内緒だ。誰にも、言ってはいけないんだ。

図書室で、古い本を胸に抱き、寂しそうにつぶやいたデモーニオ。
理科室で、消え入りそうに儚げな瞳で、俺を見つめ返した鬼道さん。
十一年の時を経て明らかにされた真実は、一人の少年が背負うには、あまりにも残酷だった。
デモーニオは秘密を胸に抱いたまま、闇野そこで、たった一人で耐えていたのだ。
一体、どうなってしまうんだろう。どうすれば、デモーニオは、不動さんは、救われるんだ。
泣きじゃくる彼を、俺達はもはや、息を止めて見つめていることしかできない。
不動さんの手から滑る落ちた拳銃が、床にあたり鈍い音をたてた。彼は懺悔でもするように床に膝を突き、頭を抱え、途切れ途切れにつぶやいた。
「…弟だったなんて…はじめからわかってたら…兄弟として会っていたら…」
彼はもはや悪魔ではない。俺達と同じ、ただの弱い人間だった。
デモーニオが、涙でびしょ濡れの顔を激しく振り上げ、立ち上がった。
「やめろ!改心なんてするなよ…っ!もう遅いんだっ。お前に滅茶苦茶にされた俺の時間は戻ることはないんだっ!なのに。自分だけ悔い改めて楽になろうなんて許さない!一生憎んでやる…!」
赤く染まった瞳をぎらぎらと輝かせ、張り裂けんばかりの声で絶叫する。
「憎んでやる!絶対、絶対っ、許すものかっっ!この世でお前が一番嫌いだ!吐き気がする!」
うなだれる不動さんの姿は、小さく惨めで、苦悩に満ち、床に落ちた拳銃を拾い上げ、今にも自殺しかねないように見えた。それだけの罪を、彼は犯した。
だが――。
引き絞られるような痛みと共に、俺は、先ほどフィディオが叫んだ言葉を思い出した。
不動さんが実の兄であることを、デモーニオは知っていた。だが、不動さんは、今この時まで、そのことを知らなかった。
ならば何故、彼は「二度と会わない」と言って、屋敷を出たんだ?デモーニオを解放したんだ?
そもそも、不動さんは、本当にあの屋敷に住んでいたのか?佐久間さんは、不動さんは最近マンションに泊まる事が覆いと言っていた。フィディオも、何度か訪問したとき、屋敷の中に人の気配が全くしなかったと言っていた。
あの家には、デモーニオしかいなかったのではないか?不動さんが、デモーニオのもとを去ったのは、もっと早い時期ではないのか?
だが、不動さんがデモーニオのもとを去ったのなら、デモーニオは、彼から自由になるために結婚する必要などないのだ。
なのに、教会にわざわざ彼を呼び出し、挑発するような言葉を投げかけたのは何故だ?復讐のためか?ただ彼を傷つけるために?
いいや。それだけじゃないはずだ。
俺は物語の読み手に過ぎないが、拓人先輩が語ったように、読み手だからこそ、気づくこともある。鬼道さんもデモーにも、その言葉や眼差しで、俺にヒントを沢山くれたではないか!
そう、まだ、この物語は終わっていない。
まだ明かされていない真実がある。
暗い地下室の中で、デモーニオが不動さんに感じていた気持ちは、憎しみだけだったのか?他の気持ちは、全くなかったのか?
そして、何故、デモーニオは病院にいたんだ?
デモーニオの本当の目的は――。
ああ、だが、そんなことなんて――。
頭の裏と耳たぶが燃えるように熱くなり、俺はデモーニオに向かって、問いかけた。
「デモーニオ、あんたは何故フィディオを刺したんだ?あんたが、いろんな奴と付き合うようになったのは、今年に入ってからだと聞いてる。その頃、あんたに何があったんだ?」
デモーニオが肩を跳ね上げ、俺を見る。声がかすれ喉が震え、俺は泣きそうな気持ちで、続けた。
「なあ、何故、不動さんに兄弟だとバレるのを、あんたはあんなに恐れたんだ?兄の伝言を、不動さんに教えなかったんだ?兄の気持ちが書いてある本を、ずっと隠していたんだ?罪悪感からか?だとしたら、何故あんたは、罪の意識を持たなければならなかったんだ?」
デモーニオが首を横に振る。まるで心の中に響く声を否定するように、幾度も幾度も。そうしながら、真っ赤な目から拓人先輩のように涙を零す。
デモーニオはとても苦しそうで、顔色がどんどん悪くなってゆき、額から汗までこぼれてきて具合が悪そうだ。
不動さんも同じくらい青ざめており、片手で胃の辺りをわしづかみし、歯を食いしばっている。
どうか、俺の考えがはずれていて欲しい。それでは、あまりにもデモーニオが可哀想だ。
こめかみがずきずきし、頭が割れそうなほど強く念じる俺の横で、拓人先輩がデモーニオに向かって、手にしていたスケッチブックを開いてみせた。そこには碧の目の少年が描かれている―。
「デモーニオ、この絵は、お前が描いたんだろ?これは、明王だな…?」
デモーニオは泣きながら首を横に振った。
「…がう」
息がますます苦しくなる。拓人先輩が目を潤ませ、今にも涙を零しそうになりながらつぶやく。
「きっとお兄さんが、デモーニオに、仲良しだった幼馴染の少年の話を聞かせてくれたんだろうな…。写真も、お兄さんから見せてもらったんだな…」
「違う…違うんだ…」
白く透き通るデモーニオの肌、それがさらに透明になり、呼吸が乱れてゆく。
「この絵は、とても優しい線で、丁寧に描かれている。少なくともデモーニオは、"明王"のことを憎んではいなかったはずだ」
語りかける拓人先輩の声は、目と同じように潤み、深い哀しみにきらきらと光っている。
しかし、拓人先輩――。
「本当の気持ちを話してくれ、デモーニオ。お前達は、この場所からもう一度やり直せるはずだ」
だけど、拓人先輩――。俺は心の中で、張り裂けそうな気持ちでつぶやく。それは、きっと正しい問いかけではないんだ。
デモーニオの声が、聞き苦しく震える。
「いや、違う。もう時間がない。時間がないんだ」
華奢な足がよろめき、花の茎がしおれるように、細い体が傾いてゆく。
「デモーニオ!」
「デモーニオ!?」
フィディオと拓人先輩が叫び、不動さんが立ち上がってデモーニオに駆け寄った。
突き出した目玉を血走らせ、口を開け、彼自身の心臓が破れたかのような形相で―。
床に膝を突いてうずくまるデモーニオを、不動さんが抱き起こそうとした瞬間、デモーニオがその手を振り払い、叫んだ。
「さわるなっ!」
不動さんの顔が強ばる。
デモーニオは玉のような汗を流し、肩で苦しげに息をしながら震えている。もう誰の目から見ても、デモーニオの体が異変をきたしていることは明らかだった。
胸に、苦い後悔が、込み上げる。どうしてもっと早く気づけなかったんだ。理科室で鬼道さんに抱きしめられたときにかいだ、不安を掻き立てる清潔な匂い。あれは薬品の匂い―病院の匂いだった。
何故、何故、気づけなかったんだ。
病気なのは、不動さんではなかった。
『この世界とはもうお別れなんだ』と、つぶやいた鬼道さん。病室の窓から見かけたデモーニオ。ヒントは、いつも、俺の目の前に提示されていたのに――。

時間がないのは、デモーニオなんだ――。

おそらく、霧野先輩だけは知っていたんだろう。険しい表情で、デモーニオと不動さんを見つめている。まるで、最後の瞬間まで目をそらさずに見つめ続けることが自分の義務だとでもいうような冷徹な眼差しで。
霧野先輩のそんな姿は、俺を身震いさせた。
一体、あんたは、どんな結末を望んでいるんだ!
デモーニオが荒い息を吐きながら、悔しそうにつぶやく。
「注射…打ってもらったのに…。三国さんに病院に連れて行ってもらって…毎日、毎日…注射、打ってもらったのに…すぐに、薬が切れるんだ…俺も、もうじき、兄さんみたいに死ぬんだ」
のろのろと視線を上げ、不動さんを見つめる。不動さんは真っ青だ。
「お前も…知ってたんだよな?だから、半年前のあの夜、俺の首に手をかけて、殺そうとしたんだよな?あの時はまだ、自分が病気で死ぬってことがわからなかった。だけど、お前が、俺に対して、とても怒っていて、絶望しているって気持ちは伝わってきた。お前が、俺のこと本気で殺そうとしてるってことも――」
デモーニオの顔が、くしゃっとゆがむ。
「俺な…首を絞められながら、このまま殺されてもいいって思ったんだ。きっとお前は、俺が上手に兄さんを演じられなかったから、俺と兄さんは別人なんだってわかって、それまで俺のことが憎くなって、いらなくなったと思っていたから…それなら、このまま殺されてもいいって…だけど―」
眉がさらに下がり、目に深い哀しみが浮かぶ。けれどそれはすぐに火のような憎しみに変わった。
「お前は、俺の首を絞めながら、言ったよな?『さようなら、裏切り者の有人』って―」
不動さんが、心臓を突き刺されたかのような顔をする。
「お前は、鬼道が死ぬことが―勝手に病気になってお前より先に死ぬことが許せないだけだった。また鬼道に置いてゆかれることに絶望し、それならいっそ自分の手で殺そうと思いつめただけだった。
お前の目には、兄さんしか映っていなかった!デモーニオはどこにもいなかった!
だから―あの時俺は泣いたんだ。鬼道のまま死ぬことが悔しかったから―そうしたら、お前は手を緩めた。『俺は兄さんじゃない』って言ったら、ハッとした顔になって、俺から手を離し、家から出て行き、それからずっと帰ってこなかった!お前は、俺が、鬼道じゃないから殺す価値もないって思ったんだ!俺を放り出し、逃げ出したんだ!」
嵐が―吹き荒れていた。
木々をなぎ倒し、岩を削る、激しい嵐が―。
「お前が去ったとき、俺、どうしていいのかわからなかった。何も食べられなかった。お前が、俺をこんな風にしたんだ!
一ヶ月前、三国さんが病院の先生と話しているのを聞いて、自分が死ぬってわかったとき、お前が何故俺を殺そうとしたのか、ようやく理解できた。そのことを確かめるために、お前の会社へ行ったが、お前は会ってくれなかった。俺、夜中に公園でブランコを漕ぎながら、笑ったよ。なんて臆病な奴なんだろうってな。
兄さんに似た俺の死を見るのが怖くて、お前は逃げた。なのに、俺が誰かと付き合うと、その人を俺から引き離そうとする。それなのに、屋敷には戻ってこない。俺が近づけば逃げる。なんて臆病で、弱虫で、卑怯な男なんだろうって、俺、雨に打たれながら、笑ってやったよ!そのとき、お前に復讐してやろうって思ったんだ。死ぬ前に、お前から全てを奪い、お前の胸に一生消えない楔を打ち込んでやろうってな!」
泣きながら放たれる言葉は、まるで愛の告白のようだった。
復讐してやると叫びながら、不動さんを見上げるデモーニオの瞳は、全く逆の感情を語っている。
何故、デモーニオが、鬼道さんの伝言を彼に伝えなかったのか。
彼の弟であることを、あれほど否定したのか―。フィディオが言っていた。
人間の感情で一番強いのは、憎しみだと。憎んでいるほうが、愛も長く続いてゆくのだと。愛しているからこそ憎み続けることができるし、憎んでいるからこそ愛し続けることができると。
嵐のより、闇を睨みすえながら、独りでブランコをこいでいたデモーニオ。
そんなデモーニオに恋をしたフィディオ。
別の男に対する憎しみを、この瞬間、命がけで語っているデモーニオを、フィディオは松風に支えられながらもベンチシートに身をもたせかけ、苦悶の表情で見つめている。
そして、拓人先輩も―。

―お前達は、この場所からもう一度やり直せるはずだ。

あの言葉が、叶うことのない祈りにすぎなかったことを、拓人先輩は思い知らされているのだろう。
デモーニオの内に秘められた嵐を、拓人先輩は、その想像力で暴いて見せた。
デモーニオと不動さん、鬼道さんの真実を明らかにし、本当は誰も飢え苦しむ必要はないのだと証明して見せた。これから先、お前達が正しい道を歩むのなら、空っぽの胃を満たすことは、いくらでもできるのだと。
過去をやり直すには、時間を巻き戻せばいい。それは単純で簡単な答えだ。
だが、時間は戻せない!
それは全く簡単なことではない!
小学六年生の終わり、どれほど祈っても、叶えられなかった願い。
間違ってしまった道へ来るまでにかかった時間をそっくり巻き戻し、元の位置に戻ることなど、人間にはできないのだ。
そして、物語を食べ、無限の想像を語る拓人先輩も、万能ではない。
拓人先輩は、俺達と同じ中学生で、ただの"文学少年"で、物語の読み手でしかないのだから。
どうしても不可能なことが―どうしても満たせない飢えが、俺達が生きるこの世界には確実に存在しているんだ。
立ち尽くす拓人先輩の鳶色の瞳は、哀しみに光っている。
愛という名の憎しみを吐き続けるデモーニオが、不動さんに向かって、枯れ木のように細い腕を伸ばす。くしゃくしゃになった顔に、絶望的な哀しみが宿っている。
「俺の中にある、お前の愛しいと思う感情は、兄さんの呪いだ。きっと兄さんは、俺の中に…行き続けているんだ。これは、俺の感情じゃない」
否定しながらも、その白い手も、すがるような眼差しも、全て彼へと向かってゆく。
デモーニオは倒れこむように、不動さんの体にしがみつき、胸に顔をうずめて、すすり泣いた。
「だけど…お前がいなければ、俺は存在しない。どこにいても、俺の心は、あの地下の灰色の部屋に戻ってしまう」
食べることを拒絶し、現実を拒絶し、デモーニオは地下に囚われたまま生きることを願った。
それだけが―デモーニオの真実だった。そのために不動さんを挑発し、自分達の箱庭へ呼び戻そうとした。
時間を巻き戻そうとしたのは、不動さんだけではない。
デモーニオも同じだったのだ。
それは愛なのか、憎しみなのか、もうデモーニオにもわからなかったに違いない。それでも、デモーニオは残された最後の時間を、不動さんと一緒にいたかったのだ。
夜な夜な鬼道さんとして彷徨いながら、デモーニオはずっと、不動さんだけを求め続けてきたのだ。
寄り添うデモーニオと不動さんは、とてもよく似ており、もともと一緒にいるべき二人であるかのように違和感がなかった。
当然だ。二人は兄弟なのだから。
だが、それは二人にとって、特にデモーニオにとって、何の救いにもならない。
不動さんは、デモーニオを受け止めながらも、抱きしめるのをためらっているようだった。苦悩に顔をゆがめ、低くくぐもった声でつぶやいた。
「誰にも…渡したくなかった…。お前の言うとおり、俺はお前の死を見るのが怖くてあの家から逃げ出したが、お前を…思い切れなかった。…どこにいても、何をしていても、お前のことを…考えていた。食事をしようとすると吐き気が込み上げて…何も…食べられなかった」
痩せ細った指でデモーニオの髪に触れようとし、直前でためらうようにその指を止め、ぐっと握りしめる。
「お前が、別の人間と歩いているのを見るたび、吐き気がひどくなって…頭が熱くなって…そいつを殺してやりたい衝動に駆られた。お前から結婚するという手紙を貰ったとき―世界が…目の前で崩壊してしまったような気がした…」
乾ききった唇から、苦痛と後悔にまみれた言葉が漏れる。
「…っ、本当に…兄弟として…出会っていたら」
拓人先輩が眉を大きく下げ、今にも泣き出しそうな顔になった。
フィディオもベンチの端を握りしめ、唇噛み締める。
俺も、心臓を掴まれ、もぎ取られたような気がした。
何故なら、不動さんのその言葉は、デモーニオにとって、一番残酷な言葉だったからだ。
彼にとって、最愛の人は最初から最後まで鬼道さんなのだと、思い知らされずにはいられない言葉だったからだ。
それは確かに、嘘偽りのない真実なのかもしれない。しかし、デモーニオが命を賭けて望んだものは、そんな言葉ではなかったはずだ―。
デモーニオは、包帯を巻いた手を振り上げ、不動さんの胸を叩いた。
残された最後の力で、憎くて、憎くて、悔しくて、悔しくて、たまらないというように、何度も何度も―彼の胸に顔をうずめたまま、無言で彼の胸を叩く。
歯を食いしばって耐える不動さんが、低い声で呻いた。
しまいに、デモーニオは息を切らし、不動さんの体に腕を回ししがみついた。
不動さんの顔に、驚きが浮かぶ。
「…っく、憎かったけれど…愛してなんかいなかったけど、でも…俺は別の物語の登場人物になって、お前の弟として出会う夢を、見たこともあったんだ…。お前がいて、兄さんがいて、平凡で幸せな家庭で暮らしたいって願ったことも…そうしたら、誰も不幸にはならなかったのにって…みんな、苦しむことはなかったのにって…」
俺は、ハッとした。
涙でぐちゃぐちゃの顔で、苦しそうに不動さんを見上げたデモーニオは、体と心を苛む痛みで、そのまま崩れ落ちそうに見えた。だが、彼と目があった直後、灰色の瞳を切なく潤ませ、ゆっくりと、微笑んだのだ。
目の淵から、涙があふれて零れ落ちる。
一番愛する人にその思いを否定されながら、決して結ばれない恋であると知りながら、最後の最後に、清らかな澄んだ顔で――。
不動さんが、驚きに目を見開く。
憎むほどに愛した彼を、目を細め穏やかに見つめ返しながら、儚く柔らかな声で、デモーニオはつぶやいた。
「兄さん…」
そのとき、不動さんの顔に浮かんだ狂おしいほどの衝撃を――。
それを見上げるデモーニオの静かに澄んだ瞳を、頬をこぼれてゆく涙の粒を、俺は決して忘れることはできないだろう。
不動さんの胸に頬を寄せ、デモーニオは目を閉じた。そうして、そのまま一度も目を覚まさず、一週間後に病院のベッドで息を引き取った。


 



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