八章 上


〜八章・嵐の少年 上〜


礼拝堂の扉を開けると、真っ白なタキシードに身を包んだデモーニオが、祭壇の前に立っていた。デモーニオの両手には包帯が巻かれ、ステンドグラスから差し込む月明かりが、細い体をスポットライトのように照らしている。
その近くに、スーツを着た背の高い男性がいるのを見て、心臓が跳ね上がった。
彼が不動明王なのだろうか?俺達の位置からは、背中しか見えない。
「いい気味だな。俺が妻を持てば、お前は俺の後身人ではなくなり、全てを失うんだ。お前は、俺の人生を滅茶苦茶にした。俺から何もかも奪った人殺しだ!沢山絶望し、苦しめばいい!お前なんか地獄に堕ちろ!」
儚さのただよう小さな白い顔―その薄い唇から吐き出される嵐のような言葉に、俺は、強い突風をまともに正面から浴びたような衝撃を受け、立ち尽くした。
フィディオと初めて会った夜、デモーニオは荒れ狂う嵐の中、ブランコの上に立ち、凄い勢いでそれを漕いでいたという。
そのときのデモーニオも、陶器を握りしめ、フィディオをめった刺しにしたデモーニオも、こんな顔をしていたのではないかと思った。
それは飢え渇き、狂気に陥った人の顔だった。肌は優希のように青ざめ、目に怒りと、苦悩と、憎しみが、空を切り裂く稲妻のように光っている。
長い間押さえつけられ、封じ込められ、人知れず心の奥に荒れ狂っていた嵐を、彼は今このとき、この世で一番憎むべき相手に、捨て身の激しさでぶつけていた。
そうして、嵐の真っ只中にいるとき、人が自然の猛威を畏れ、翻弄されるしかないように、俺達はデモーニオ・ストラーダという一人の少年が見せた破壊的な感情に圧倒され、声を発することも、足を踏み出すこともできずにいた。
それはデモーニオを支配し続けてきた不動明王も、例外ではない。彼は俺達に背を向けたまま身じろぎもせずに、立ち尽くしている。
「―兄さんは、お前のことなんかこれっぽっちも好きじゃなかった。お前なんか使用人としか思っていなかったし、お前のことをバカにしていた。『愛している、明王』『有人は永遠に明王から離れない』――お前が、俺に言わせた言葉は、全部嘘だ!お前の自分勝手な妄想だ!愛しているって言いながら、心の中で『死ねばいい』って呪っていたんだっっっ!」
この途方もない嵐がどこまで激しくなるのか、どこまで破壊しつくそうとしているのか、俺には見当もつかなかった。
喉がからからに渇き、目に針を入れているように瞬きができない。
俺と松風の背にもたれているフィディオが、唇を震わせ吐息のような声でうめく。
「…やめろ…もうやめろよ…デモーニオ」
そうだ。デモーニオ。これ以上はダメだ。これ以上、憎しみをぶつけるのは危険だ。
頭の中でシグナルが点滅し、喉が締め付けられ、息が苦しくなる。
これ以上、彼を傷つけてはいけない!あんたの口から出た言葉は、彼を追いつめる!時間を巻き戻し、失われた過去を取り戻そうとした彼は、それを全否定され、今度こそ、全てを壊そうとするだろう。デモーニオ、お前は、とても危険なことをしている!
あんたは、本当に彼とこの場で刺し違える気なのか!
不動さんの背中が、動いた。
腕をスーツに合わせ目に差し入れ、黒く光るものを取り出すのを見て、一瞬にして全身が冷たくなった。
フィディオがデモーニオの方へ駆け出そうとする。その腕を霧野先輩と松風がつかみ、無理矢理引き戻す。
二人とも、どうしてだ!?
銃口が、まっすぐデモーニオへ向けられる。デモーニオはたじろがない。不動さんに向かって最後の、決定的な言葉を放つ。
「お前みたいな男を誰が愛するんだ!兄さんは、お前と結ばれても惨めになるだけだと理解していたから、お前を捨てたんだ!俺も兄さんと同じだ!」
違う!それは間違いだ!
頭の中で響き渡る否定の言葉は、一体、誰に向かって叫んだ言葉だったのか。
俺は霧野先輩と松風に腕を掴まれているフィディオの横をすり抜け、驚く三人に背を向け、デモーニオの方へ走り出していた。
何故、そんな大胆なことができたのが、自分でも理解不能だ。
俺は物語の傍観者にすぎず、事なかれ主義な人間だ。だが、何故、今このとき、この物語に関わろうとしたのか―。
目の前で人が死ぬことに耐えられなかったためか、白竜を思い出させる鬼道さんに惹かれていたか、図書室で言葉を交わしたとき見たデモーニオの寂しそうな眼差しを思い出したからか、悪魔に魂を売ってでも時間を巻き戻そうとした彼の罪を、自分の罪のように感じたからか―。
俺を突き動かした、嵐のような衝動が何故あったのか、到底説明することは無理だ。
だがきっと、そういうことがあるんだ。心より先に体が動いてしまうということが。頭の中から、恐怖や、ためらいや、卑屈さや計画など、そんなものが一瞬にして吹き飛んでしまうことが。
そんな風にして、伝えなければならないことが――。
俺は体当たりするように、不動さんの上にしがみついた。
「剣城…!」
デモーニオが驚いて叫ぶ。
俺は、初めて、まともに不動さんの顔を見た。
彼は、デモーニオのスケッチブックに描かれた少年の面差しを持つ男性だった。他の奴からの話から、悪魔のように禍々しい精力的な面構えを想像したいたため、死人のように覇気のない虚ろな顔を見て、驚愕した。
髪は茶色く、瞳は青みを帯びた碧のガラス玉のようだ。女性を惹きつけそうな整った顔つきをしているが、頬の肉が落ち、ひどく憔悴し、中身は百歳を過ぎた老人のようだ。
こいつが不動さん…?
俺が思っていたのと違う。ずいぶん繊細そうな…そして哀しそうな…。
本当に、こいつが、デモーニオを夜の世界に閉じ込めた悪魔なのか?
彼がデモーニオにしたことは、許されることではない。だが、俺を見下ろす絶望と苦悩に満ちた目は、怒りよりも、胸に突き刺さる哀しみを呼び起こした。
総、俺だって願っていた。何と引き換えにしてでも、時間を取り戻したいと!
「…っ、デモーニオ、あんたが今話したことは間違いだ。鬼道さんは、彼のことをそんな風には言っていない。こんなのは誰も救われない。あんたも、彼も、苦しむだけだ」
喘ぎながらつぶやいたときだ。

「――そうだな、デモーニオは嘘をついた。鬼道さんが結婚しなければならなかったのは、別の理由だからだ」


張り詰め、静まり返った聖堂に、オルガンの調べのように澄み切った声が響いた。
驚く霧野先輩と松風とフィディオを置き、拓人先輩がウェーブがかった髪を揺らし、俺達の方へ近づいている。
不動さんが振り返り、目を見張る。デモーニオが拓人先輩が抱えているスケッチブックを視界に捕らえ、青ざめる。
「俺は、この世のありとあらゆる物語の読み手に過ぎない。お前達の物語には関わり合いのない人間だ。だが、読み手だからこそ気づくこともあるんだ。物語の主人公達は、いつも不幸な思い込みや擦れ違いから離れ離れになり、破局への道を突き進む。本来ハッピーエンドのはずの物語が、少しの誤解や策応で、悲劇に早変わりしてしまうんだ。
『嵐が丘』のヒースクリフとキャサリンも、そうだった。
十九世紀のイギリスの寒村に暮らす、孤独で人嫌いな牧師の娘が、資料もほとんどなく、経験もなく、その卓越した想像力だけで、生涯に多田一冊だけ、世界に向けて送り出した小説を―この奇蹟のような飢えと、復讐と、愛憎の物語を、デモーニオは読んだことがあるか?
この本が出版されたとき、批評家はこぞって、不道徳だとか、荒っぽいや、文章がなってない、構成が破綻していてわけがわからない、俗悪だ、『嵐が丘(ワザリング・ハイツ)』ではなく『壊滅の丘(ウィザリング・ハイツ)』と名づけるべきなど、散々こきおろしたんだ。読者も、登場人物の暴力的なまでの情熱の眉を潜め、本は全く売れなかった」
背筋を凛と伸ばし、何者かに挑むように、"文学少年"は主張を続けた。澄んだ黒い瞳に、知性の輝きがともる。
「俺は、この本を読めば読むほど、腹がすくんだ。心がからからに飢え渇き、喉がどうしようもなく締め付けられ、狂おしいほどの飢餓感に頭が熱くなって、息苦しくなるんだ。でも何故だか、いつも最後まで読んでしまうんだ。
この物語に出てくる人たちは、誰も彼も自己主張が激しく自分勝手で、憎むのでも哀しむのでも愛するのでも、獣のように感情を剥き出しにして罵りあい、傷つけあい、とても親友にはなれそうにない人ばかりだ。
キャサリンはしょっちゅう癇癪を起こしてハンストするし、ヒースクリフは逆恨みのストーカーだし、ネリーも余計なことばかりして話をややこしくするし、二代目キャサリンの、ヘアトンに対するツンケンした態度も、後半デレるとはいえ、あんまりだ!お前達、少しは他人を思いやれ、一呼吸置いて冷静になれ、世間に出て視野を広げろって、本に顔を突っ込んで叫びたくなるじゃないか。
なのに、いつかそんな荒々しい物語が―閉ざされた世界で生きる欠点だらけの人たちが―嘘のないまっすぐな魂が―胸が張り裂けそうなほど愛おしくなってゆくんだ。
こんな風に、剥き出しの心をぶつけ合い、極限まで求め合い、奪い合うような愛があってもいいんじゃないかって。ここまで愛し合いされる相手がいるなら、他の人間なんか必要ないんじゃないか、そんな相手と出会えたら、もうそれ以上の幸福なんてないんじゃないかって思えてしまうんだ。
この本は、そういう物語だ。
吹きすさぶ嵐のような世界に巻き込まれ、胸を押しつぶされそうな不安と恐怖を覚えながらも、読み進めずに入られない―欠点すら魅力に変わってゆく―そういう力を持った物語なんだ。
技術だけでは決して書けない。作者のエミリーの魂で書かれた物語だ。だからこそ百年以上もの間、読み継がれてきたんだ」
不動さんは拳銃を持つ手をおろし、不思議な生き物を見る目で拓人先輩を見ていた。
一体、こいつは何者なんだ?
何故、自分はこいつの言葉に、黙って耳を傾けてるんだ?
そんな茫然とした顔で。
逆にデモーニオは、苦しげにうなだれ震えている。
拓人先輩が睫を伏せ、哀しそうな顔になり、言った。
「…不動さんと鬼道さんは『嵐が丘』に出てくるヒースクリフとキャサリンによく似ているな。二人は幼馴染で、片時も離れることなく、相手の魂を自分の魂のように感じながら育ったが、年頃になったキャサリンは、両家の子孫であるエドガーと結婚してしまうんだ。キャサリンがネリーに、ヒースクリフと結婚しても落ちぶれるだけだと話しているのを聞いてしまったヒースクリフは、屋敷から失踪してしまう。
けれど、キャサリンが本当に愛していたのはエドガーではなく、ヒースクリフだけだったんだ。ヒースクリフにとって、キャサリンが、ただ一人の愛しい女性であったように――」
不動さんの瞳が衝撃に揺れ、デモーニオが聞きたくない言葉を待つように、固く目を閉じる。
「キャサリンは、ネリーにこう言うんだ。自分が結婚すれば、兄のヒンドリーからヒースクリフを助け出し、出世させてあげることもできると―。それは、エドガーと結婚する一番良い理由だと―もちろんそんなことは一般的には理解されない。不道徳と非難されても仕方がない。だが、キャサリンにとっては、それはヒースクリフへの愛情から出た、濁りのない純真な気持ちだったんだ。
キャサリンは、自分の魂はヒースクリフと同じもので作られており、それはエドガーの魂とは月光と稲妻、霜と火くらい違うと断言した。エドガーへの愛は時が経てば変わるが、ヒースクリフへの愛は永久不動の岩盤のようで、見ていても楽しいものではないが、なくてはならないものだと。俺はヒースクリフなのよって―」
ずっと黙っていた不動さんが、初めて激情をあらわにし、言葉を発した。
「お前は、一体何を言おうとしてんだ?有人の気持ちが、キャサリンと同じだったとでも講釈するつもりか?惨めな俺を救うために、籍を入れたとでも?馬鹿馬鹿しい。それは、お前の妄想だろ。有人は俺に、笑って結婚すると言ったんだ。俺と結婚しても幸せになれないってな」
拓人先輩は瞳を潤ませ、ますます哀しそうな顔になる。
「そうですね。俺がいくら言葉を重ねても、あなたは信じられないでしょう。だから、あなたに。鬼道さんの愛の証を教えてあげます。
あなたが鬼道さんと、数字を使った暗号で、手紙のやりとりをしていましたね?鬼道さんは学校を辞める前に、教室の机や壁に、あなたへのメッセージをいくつも残しました。それは全部拭き取られてしまったが、当時の学校新聞や文集に、謎の数字を残す幽霊のことが書かれており、メッセージの一部を知ることができました」
拓人先輩が生徒手帳を出し、開く。
文芸部の机に、文集が積み重ねてあったことを思い出し、俺はハッとした。拓人先輩は拓人先輩おやり方で、地道に調査を進めていたのだと。
手帳に写し取った数字を、拓人先輩がゆっくりと読み上げてゆく。
「"22 4714 43 20 45 36 36 45 20 22 4714 43""22 4714 43 39 44 42 44 40 16 41 42 6 13 42 35"」
"きどう"の"き"から始まる二人の暗号―。
彼が愛した少年が、夜な夜な校内を彷徨い、残したメッセージが、今、明かされようとしている。
「――"不動は俺、俺は不動""不動を永遠に愛している"――」
不動さんの目が張り裂けそうに見開かれ、拳銃を持つ手が震え出す。そんな様子は、ひどく傷つきやすい青年のように見えた。
「嘘だっ!愛しているなら、何故裏切ったりしたんだ!?俺の未来を開くため?そんな理由、納得なんてできるかよ!」
憎しみに凝り固まった心に、どんな言葉も伝わらないのだろうか。けれど拓人先輩は、たじろぐことなく彼を見つめ返した。
「なら、鬼道さんの一番確かな愛の証を。鬼道さんは、あなたの未来と、あなたとの愛の証を守るために、他の人と結婚しなければならなかったんです。それは―」
そのとき、デモーニオが絶叫した。
「それを、言うなあっ!」
デモーニオの唇は、長い時間海に浸かっていた人のように青ざめていた。細い肩で激しく息をし、哀願するように、拓人先輩を見つめている。
「頼む…っ、やめてくれっ。それだけは、言わないでくれ。やめて。お願い、お願いします」
「でも、デモーニオ、不動さんは君の―」
「嫌だっ、言っちゃダメだっ!」
拓人先輩が迷うように口を閉じたとき、後ろでフィディオの声が響いた。







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