五章 中


【物心ついたとき、彼は、暗くて不潔でいかがわしい場所にいた。
教育と言うものを一切受けることなく、空っぽの胃袋を抱え、日の射さない工場で働いていた彼を、東洋の島国からやってきた紳士は保護し、自分の屋敷へ連れ帰ったのだった。
彼の子供らしからぬ――世の中の全てを疑い、憎んでいるかのような面構えが、変わり者の紳士を惹きつけたこと。それが彼が紳士に引き取られた理由だった。
紳士には、彼と同じ歳の愛らしい息子がいた。
「父上、こいつは何ですか?」
初対面でいきなりこいつ呼ばわりした息子は、じろじろ彼を眺め回した後、真っ赤な花が開くように笑い、
「そうか、父上のお土産なんですね。そうだな、こいつは汚いが、よく見ると綺麗な目の色をしているからもらってやってもいいな」
「決めた。お前は、今日から俺の弟だ」
同じ歳であり、もしかするとこちらのほうが早く生まれているのかもしれなのにも拘わらず、壮大に宣言してみせたのだった。
それからあと、二人はいつでもどこへ行くのでも一緒だった。
朝も昼も夕暮れも夜も、手と手をつなぎ、まるで二人で一つの生き物のように寄り添いあって過ごした。
「明王、腹がすいた。ホットケーキでも焼いてくれ。蜂蜜もかけろよ」
「手が疲れた。食べさえろ、明王」
可愛らしく口をあける彼に、銀のフォークでホットケーキを切り分け、食べさせてやる彼。幸せそうに微笑む彼。
「美味い。明王は天才だな。俺は、どんな立派な店の料理よりも、明王が作ったものが一番好きだな」
そんな日常が、あたりまえのように続いていた。

二人の庇護者であった紳士が、急な病で息を引き取るまでは――。】



〜五章・"文学少年"の報告 中〜


放課後、俺は拓人先輩と一緒に、フルーツゼリーの詰め合わせとピンクのリボンと結んだ花束を持ち、狩屋が入院している病院を訪れた。あえてそのフルーツゼリーが市販のものよりも高そうなことは、触れないで置こう。
「すまない、マサキっ」
拓人先輩が両手でゼリーの箱を差し出し、深々と頭を下げる。
その隣で、俺も花束を差し出しながら同じくらい深く、深く、頭を下げる。
「このたびは、部長が多大なご迷惑をおかけし、申し訳ありませんでした」
水色のパジャマ姿で、上半身を起こしていた狩屋は、真っ赤な顔で口ごもった。
「い、いえ、俺そんな…謝ってもらわなくても…もともと俺のほうから、勝手についてくって言ったんですし、勝手ドジ踏んで、塀から落ちたせいで、拓人先輩まで補導されて…本当にあの、すみませんでした」
狩屋が両手を伸ばし、ゼリーの箱を受け取る。
「い…いただきます」
それから頬をもっと赤くし、俺が手にしている花束をおずおずと見た。ゼリーの箱を胸に抱えたまま、どうしたらいいのか途方に暮れている様子で、赤い薔薇の蕾とピンクのスイートピー、それにカスミ草を見つめている。
「この花、嫌いだったか?」
顔を上げて尋ねると、唇を尖らせ首を横に振った。
「そんなこと言ってないだろ。いただきます、ありがとうございます―って、これは、拓人先輩に言ったんだからな!剣城君じゃないからなっ」
そう主張し花束をつかみ、ゼリーの箱と一緒にそっと抱きしめる。
「あ、俺、花瓶も持ってきたんだ。花、活けてくるな」
拓人先輩が途中百円ショップで購入した(拓人先輩は家から高級そうな花瓶を持ってこようとしていたが、俺が百円ショップで買おう提案し、不服そうにしていた)器を見せると、狩屋は名残惜しそうな様子で、花束を渡した。
「…えっと…じゃあ、お願いします」
「じゃあ、行ってくるな!」
拓人先輩が部屋から出てゆき、俺と狩屋の二人きりになってしまった。
狩屋は、ぶすっとした顔で、しきりに髪に手をやったり、パジャマの襟元を直したりしている。
「…この部屋、同室の人が誰もいないんだな」
「…今朝一人退院して、もう一人は検査に行ってる」
「そうか…」
「なあ…あの花、拓人先輩が選んだんだろ?」
横を向いたまま、ぶっきらぼうに尋ねる。
「そうだが、何か問題があったか?」
そう答えると、
「…やっぱそうだよな…だと思った。センスいいし…剣城君が選ぶわけ、ないよな……」
暗い声でぼそぼそつぶやく。
気のせいか?少しがっかりしているように見えるんだが…。
「……その怪我、本当にすまない。期末試験も受けられないし」
「先生が追試してくれるっていうし、平気だよ。それに、剣城君が謝ることじゃないだろ」
「それはそうだが」
「剣城君、何で来たんだ」
「…来ないほうがよかったか?」
狩屋は目の下を赤くし、つっけんどんにつぶやいた
「そういうわけじゃ…た、ただ、事前に連絡してくれたらよかったのにさ。今の俺、なんかカッコ悪いし」
「俺は気にしないが」
「俺が気にするんだっ!」
俺のほうを思い切り振り向き怒鳴ったとたん、顔中真っ赤になり、また横を向いてしまう。
「って、別に、剣城君のこと気にしてるわけじゃないし、それは違うんだけどさ…」
狩屋は唇を噛み締め、再び黙り込んでしまった。部屋中が、シンと静まり返る。
空気が重い。拓人先輩早く戻ってきてくださいよ。
視線のやり場に困り、窓のほうを見る。下をちらりと見下ろすと、雷門の制服を着た少年が、一人の男性に支えられるようにして建物から出てきた。
よく見ると、あいつ、デモーニオじゃ――。
よく見ようと、窓の方へ身を乗り出したとき、狩屋が低い声でつぶやいた。
「…俺のこと、ヤな奴だと思ってんだろ」
「はあ!?」
何で俺がそんなこと思わないといけねーんだよと言いながら狩屋のほうを見ると、唇と尖らせたまま、今にも泣きそうな顔で、俯いていた。
こいつ、何拓人先輩みたいな顔してんだ!
内心めんどくせえと思う俺に、狩屋は掛け布団の端を握りしめ、掠れた声で言った。
「ひ…否定しなくてもいいし。俺、剣城君のこと睨んでばっかで感じ悪いもんな…。でも…剣城君は全然…覚えてないと思うけど…俺、俺な…小学のとき…」
小学…?狩屋は、俺と別の小学校の出身じゃなかったか…?
一体何を言おうとしているのかわからず、ますます困惑したときだ。
「狩屋く〜ん、お見舞いに来ちゃいました〜!」
クラスの奴らが、にぎやかに入ってきた。
「駅の階段から落ちて骨折したって聞いて、びっくりしちゃったよ〜。あれ?剣城?」
そしつらが目を丸くする。
「ええええぇぇぇぇすっごく意外なんですけど!?剣城君が、狩屋君のお見舞いに来てるなんて!」
「本当に驚きだね!だって狩屋、剣城のこと――」
嫌いなのに――と言いかけたんだろう。隣の紫の髪の奴に小突かれ、慌てたようにチビは口ごもる。
狩屋が険しい表情で行った。
「ヘンな誤解すんなよ。剣城君は拓人先輩の金魚のフンで、くっついてきただけだしさ」
「あ、そうなんだ。けど、金魚のフン呼びなんてひどいと思うよ」
「そうだよ〜。入院しても口の悪さは変わらずなんだねぇ。剣城、可哀想」
そいつらが、無邪気に笑う。
俺と狩屋は、互いに気まずそうに視線をそらしあった。さっき狩屋が言いかけたことは、なんだったんだ。
「狩屋が退屈してるだろうと思って、いろいろ持ってきたよ」
ベッドの上に、漫画やミステリー本が、ドサドサ積み重ねられる。
その中に、見覚えのある空色の表紙の本を見つけ、俺は息が止まりそうになった。
狩屋が、ハッと目を見開く。
クラスメイトの一人が、朗らかに声を張り上げた。
「あーっ、白じゃん。懐かしいなぁ。これ、小学のとき読んで、感動しましたよ!」
「だよねぇ。僕もだよ。作者が小学生だからかな、心情がリアルで、シンクロしまくりだったなぁ。狩屋、白、読んだことないって言ってたよね?」
狩屋は何かを気にするようにそわそわし、歯切れの悪い声でつぶやいた。
「そ…そうだったっけ」
白の本を持ってきた西園が、満面の笑顔で差し出す。
「はいっ、この機会にぜひ読んでみてよ。絶対、狩屋も気に入るからさっ。ちょっとした台詞とか文章が、何かキュンとくるんだよね〜。それに読後感がめちゃくちゃいいんだ。あ〜、きれいなの読ませてもらったな〜って感じ」
「わかりますそれ!僕普段本なんか読まないけど、白には凄くハマリました。青春のバイブルって感じですかね?映画も良かったし、原作の雰囲気とベストマッチでさ。三回も見に行っちゃいました。白、どうして二作目書かないんでしょうね?こんなに才能あるのに、もったいないですよ」
俺は靴の先を見つめ、震える声で言った。
「才能なんかあるわけがねえ」
その言葉は、自分でもぞっとするほど冷たく聞こえた。和やかな空気をピシリと叩く氷の鞭のようだった。
そいつらが、驚いて俺を見る。
喉と耳たぶが焼けるように熱くなり、握りしめた手がかすかに震えた。
「そんな本のどこがおもしれーんだ?文章下手で、構成雑で、頭の悪い小学生が書いたポエムを読まされてる感じで笑っちまうよ。みんな、賞とったのが十二歳の女子だったからって、物珍しくて騒いでただけじゃねえのか?動物と同じじゃねえかよ。俺は白なんか大嫌いだ」
俺が放った言葉は十倍の強さで跳ね返り、俺自身の心をえぐった。
そうだ、その本に書いてあることなんか、全部嘘だ。
夢は望めば叶うとか、痛い目を見たことの愛未熟な子供の、無責任な戯言だ。
世界はもっと、狭く、重く、暗い。
人の心も、晴れた日の空のように単純明快ではない。そこに踏み込めば踏み込むほど、どろどろと澱んでおり、吐き気をもよおすような酸っぱい匂いがする。
全部―全部、まやかしだ。白が書いた物語も、白自身も。
病室は静まり返り、みな驚きの表情のまま固まっている。狩屋があえぐように唇を動かす。
どうにか取り繕わなくてはいけないが、頬が石のように強ばり喉が震え、どうしても笑えず、耳が熱く、息が苦しく、部屋から出て行こうとするが、入り口のところに花を活けた花瓶を持った拓人先輩が立っていた。
俺の醜い言葉を聞いていたのだろうか。哀しそうな、心配そうな眼差しで、俺を見つめている。
拓人先輩に何か言われる前に、俺は熱く焼けた喉から、必死に声を振り絞った。
「…スミマセン……先に帰ります」
そうして、拓人先輩の顔を見ないようにしながら前を通り過ぎ、早足で病院のロビーを進んだ。
失敗してしまった…。
全身が震え、頭の奥で耳鳴りがするほどの後悔が、押し寄せる。
失敗した…。
失敗してしまったんだ…!
何を言われても平然を装う、害のない人間だと思われていたはずだったんだ。
必死に築き上げてきた防壁が、たった一冊の本で、あっけなく崩れてしまった。
もう、自分がどこをどう走っているのかもわからない。一刻も早く部屋に逃げ込み、ドアを閉じ、すべてをなかったことにしてしまたいという思いだけが、俺の心の中で荒れ狂っていた。
家に辿り着き、制服のままベッドにもぐりこみ、頭の上までタオルケットをかぶった。
もう嫌だ。この先ずっと、白の名前を見たり聞いたりするたび、犯罪者のように怯えて逃げ出さなくてはいけないのか。自分がしたことを後悔し続けなければならないのか。
何故俺ばかり――!賞なんて欲しくはなかった!作家になんかなりたくもなかった!
ただ白竜が隣で笑っていてくれたら――それがたとえ偽りの楽園であっても、本当は全部嘘のハリボテであっても、そのことに気づくことなく、俺はハリボテの世界を愛したまま、幸せでいられた。
なのに、白竜は憎しみに満ちた目で俺を睨み、剣城にはわからないだろうなと微笑み、逆さまに落ちていった。
何故、知恵の実を食べてしまったんだ。
何も知らない、愚かで幸福な子供のままでいられなかったんだ。
失ったものを取り戻すには、時間を戻せばいいと鬼道さんは言っていた。俺は無理だと答えた。
だが、本当に…本当に無理なのか?時間は戻せないのか?
神様とやらが叶えてくれないなら、悪魔でも構わない!
魂でも何でもくれてやる。だから、どうか時間を戻してくれよ!
そうしたら、あんな嘘でまみれた小説なんて破り、生ゴミと一緒に捨ててやるのに。小説なんて、決して書かないのに――。
二年前と同じことを、息がつまるほど願いながら、俺はあの頃と同じようにシーツをかきむしり、枕に顔を押し付け、全身を焼けた刃物で切り裂かれているような痛みに、歯ぎしりして耐えるしかなかった。
そして俺はそのまま、泥の中に沈み込むように眠ってしまったらしい。



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