三章 上


〜三章・俺が出逢ったあんた 上〜

週末の土曜を、俺は兄さんの病室でゆっくり過ごしていた。
「京介、何を読んでるんだい?」
おだやかな昼下がり、俺がブックカバーに包んで読んでいる本に興味を持った兄さんが尋ねてきた。
「友達から借りたテストに役立つって話の本だよ」
そう口では言ったが、本当はそんな内容など一切書いてなどいない。
俺の見ているページには『摂食障害――拒食症・過食症――』と書かれている。
『こころの病気』というタイトルがついた本は、小学生時代の終わりに、俺が部屋に閉じこもっていたとき、布団の中で読んでいた本だ。当時俺が見ていたのは『パニック障害』『過呼吸症候群』『強迫神経症』という項目であったが…。
心は体とつながっている。心が弱っていると体も壊れてゆく。そのことを俺は、経験として知っている。
食べるという生きる上で一番基本になる行為を拒むようになったデモーニオの心は、どんな風に弱っていっったのだろうか。どうすれば、心は力を取り戻すのだろうか。
そして、胃の中のものを吐いてしまうという不動さんも、壊れているのは体ではなく、心のほうなのかもしれない。
一度も会ったことのない不動という人物が、俺はとても暗く不気味な存在に思えた。
彼の目的は、一体なんなんだ?
「ねえ京介。今度、京介のお勧めの本を読んでみたいんだけど、持って来てもらっていいかな?テストが終わってからでいいんだけど」
「わかったよ兄さん。楽しい物語を選んで持ってくるよ」
そう微笑みながら話していると、ふと時計を見た。時計の短い針はとっくに2を過ぎており、昼食をまだ食べていなかったことを思い出した。
すると、先程まで感じていなかった空腹感に俺は急に襲われた。
今、俺は、当たり前のように食欲を感じることができる。
一度壊れてしまった俺の心は、時々誤作動を起こしながらも正常に動いている。
そのことが、喉がしめつけられるように苦しく切ないのは、白竜の面影がしだいに遠ざかってゆくような気がするからだろうか。
我ながら矛盾している。普段は思い出に蓋をし、必死に顔を背けているくせに、俺は白竜を忘れたくないんだ。


夕飯の後、切れてしまったシャーペンの芯等を買いに行った帰り道。ふと気になって、学校へ行ってみた。
まさか拓人先輩、土曜日まで張り込みはしてないだろうか。
不安に思いながら校舎を眺めていたときだ。
黒塗りの高級車が、校門の前で止まった。
ドアが開き、中から細身の少年が出てくる。
あいつ――!
心臓が飛び出しそうになった。手に黒い鞄を持ち、帝国学園の制服に身を包み、ふらふらした足取りで校内に入ってゆくのは、デモーニオで間違いない。
車が門の前から離れる。暗いため運転手の顔はよくわからないが、背の高い男性のようだった。
俺は急いで裏門に回り、中庭へ走った。
少し前にあった通り雨のせいで濡れた芝生に座り込んだデモーニオが、ノートに文字を書いてはちぎり、ポストへ入れている。儚げな背中も、折れそうな首筋も、はじめて見たときと同じだ。
これは声を掛けてみるべきか?
そう迷っているうちにデモーニオは、鞄にノートをしまって立ち上がり、歩き出した。
校門へは向かわず、そのまま渡り廊下を進み、校舎の中へ入ってゆく。
なっ、鍵は?!かかってなかったのか?何故?
このままでは見失ってしまう。俺は、慌てて奴のあとを追った。
階段をのぼり、また廊下を進み、理科室の前まで来ると、デモーニオは出入り口の引き戸のほうを向き、そのまま中へ入っていった。
部屋の中に明かりがともる。壁に張り付き、幾度も唾を飲み込み、息を殺して様子をうかがう俺の耳に、ガチャガチャ、バタンという物音が聞こえてくる。
これは…機械音か?ロッカーを開けている?そこからなにかを出した?それから、水道を流す音と、椅子を引く音…?
しかし、突如静かになった。
気になって薄く戸を開けて中をのぞき見ると、デモーニオの姿はなかった。
嘘だろ!?一体どこに行ったんだ?ここは三階だ。まさか窓から外へ飛び降りたりしたんじゃ!
引き戸を開け、教室に入る。
周りを何度も見回すが、やはりいない。
まさか本当に幽霊だったのでは――。
ポーカーフェイスをつくりながらも震えるほどの恐怖を感じ、耐熱机の間を歩き回っていたときだ。
足の脛に、生暖かいものが触れた。
「!」
喉の奥が引きつり、悲鳴がこぼれた。同時に、「ひっ」という男の声が足元で聞こえた。
視線を下に向けると、帝国学園の制服を着た少年が、しゃがみこんでいた。
「デモーニオ…!」
消えたと思ったデモーニオ・ストラーダは、片手に雑巾、片手にスプレー式の洗剤を持ち、机の中に半分体を押し込めるようにして、下のほうの壁をこすっていたのだ。
「…なにをしてるんだ?デモーニオ?」
目を丸くしたまま尋ねると、鋭い目つきで軽く睨んできた。
「デモーニオではない。俺は鬼道。鬼道有人だ。前回名前を教えたはずだが?」
それは、あんたの兄の名前じゃないか。しかし、この状態で、突っ込みを入れることはできなかった。
「すみません。こんな時間になにをしてるんですか?鬼道さん」
「手紙を、消していたんだ」
デモーニオ――いや、鬼道さんが、暗い表情で壁のほうへ向き直る。そこには、消えかけて薄くなった数字が並んでいた。
"22 4714 43 41 42 6 13 42 35"
「もう全部消されて、なくなったと思っていたんだが…これだけ、机の陰になって、残っていたんだな…こんなもの、もう、必要ないものなのに…」
沈んだ声で呟きながら、雑巾でごしごしとこすり、数字を消してゆく。
「どうして必要ないんだ?」
「…俺も、あいつも、死んでしまったからな」
「あんたは、幽霊には見えないが」
数字を消し終えた鬼道が、机の下から顔を出し、四つん這いの姿勢のまま、にやりとする。
「さっきは、真っ青な顔で俺を見ていたぞ?ま、お前は隠しているつもりだったみたいだがな。俺のことを幽霊だと思って思って、足がすくんだんだろ?」
「それは……」
口ごもってしまうと鬼道さんは立ち上がり、笑った。前に中庭で聞いた病的な笑いとはまた違い、明るい笑い声だった。いたずらっぽく見つめてくる目が、俺の胸の中にいる懐かしい存在に、よく似ていた。

――嘘をついてもわかるんだぞ。白状しろ、剣城?

――剣城は、すぐに顔に出るからな。だが、俺の頼みをきいてくれるお前も、嘘をつけないお前も、俺は好きだぞ。

まるで過去の夢を見ているような不思議な空気にとらわれ、胸が甘くしめつけられる。
白竜も、こんな風に俺をよくからかっていた。
俺を見つめて、まぶしく笑っていた。
もちろん、俺の目の前にいるのは白竜ではない。白竜には、もう会うことはできない。
けれど、錯覚でもいいから、俺はこの懐かしい空気に、浸っていたかった。
嘘でも夢でもいい。あの頃に戻れたら――……。
そんなこと現実には不可能に決まっているのだが。
「あんたはどうして、文芸部のポストにメモを入れてるんだ?あの数字にはどんな意味があるんだ?"あいつ"って誰だ?」
鬼道さんが、雑巾やバケツをロッカーに片づけだす。密かな音を立てながら…。そうしながら、本心を見せないつかみどころのない口調で言った。
「知りたければ、明日もここへ来い。そしたら、ヒントくらいあげてやってもいいぞ」
俺はまだ夢の中にいるようなぼんやりした気持ちで、理科室から出て行く彼を見つめていた。
ふわふわした足取り。
膝辺りで揺れる、赤いマント。

今のは、約束だったのか?


翌日の日曜日、俺は朝からずっと鬼道さんのことを考えていた。
彼は本当に、今日もあの場所へ来るだろうか?
夕方までずっとそんなことを考え続け、夜になると不安な気持ちを抱きながら、学校へ向かった。昨日と同じように廊下を進み、階段を登って理科室へ行く。
引きとを空けると、鬼道さんは部屋の電気もつけず月の光を浴び、全開になっている窓の前に立っていた。
俺がやってきたのを見て、鬼道さんは微笑んだ。
「よく来たな。剣城」
剣城と呼ぶ口調も、白竜に似ているような気がした。
いや、奴は白竜じゃない。それどころか、もうこの世にいない人間だと理解しているはずなのに、俺の胸はどうしようもなく震えた。
「約束だ。教えてくれ。ポストに入っていたメモの数字には、どんな意味があるんだ?」
「俺はヒントをやると言っただけだが?」
「…じゃあ、そのヒントをくれないか?」
鬼道がマントをひらめかせ、耐熱机に腰掛ける。
「ヒントは、俺の名前。"き、ど、う"だ」
「理解できないんですが」
「しっかり考えてみろ、探偵さん」
「俺は、ただの中学生だから、それだけのヒントで推理をするなんて無理です。別のヒントはないんですか?」
「なら、あいつの話をしてやろう」
つぶやく彼の瞳に、愛おしげな光が宿るのを、俺は見た。
「あいつは、誰よりも俺の近くにいた。俺の片割れで、俺の"半分"だ。俺たち、どこへ行くにも、何をするのも一緒だったんだ…」
窓から差し込む清らかな月明かりが、遠い過去の記憶を、現在に運んでくる。
時の欠片が白い羽になり、月の光とともに、俺の上にゆっくり舞い落ちてくる。
俺たちもそうだった――。
どこへ行くのも、何をするのも、兄さんを除けば一緒にいることが多かった。白竜は俺の魂の半分だった。少なくとも折れた、白竜のことをそんな風に想っていた。
「あいつと俺は、とても楽しい時間を過ごしていたんだ。しかし――」鬼道さんが、寂しそうに睫を伏せる。「あいつは、俺に腹を立てて、いなくなってしまったんだ。俺たちは、二度と会えなくなってしまった」
心臓を貫くような痛みに、俺は胸を押さえた。
俺も、もう会うことはできない。
白竜は憎しみに満ちた目を俺に向け、俺を拒絶した。
あんなに好きだったのに、二度と会うことは叶わないのだ――。
「なぁ、失ったものを取り戻す方法を、剣城は知っているか?」
俺をじっと見て、鬼道さんが真顔で問いかけてくる。
俺は服の胸元を固く握りしめ、震える声を隠すように答えた。
「――それは無理だ。一度なくしたものを、取り戻すことは不可能に決まってる」
鬼道がわずかに目を伏せ、淡々と告げる。
「そう簡単に答えを決め付けるな。とても簡単なことなんだぞ。時間を戻せばいいんだ。そうすれば、二度と同じ過ちは繰り返さない」
それはまるで、悪魔の囁きのようだった。
時間を巻き戻すことができれば――過去のあの日に戻ることができれば――。
長い長い冬の間、ベッドの中で布団を引きかぶり、幾度も願ったことだ。
小説を書く前の俺に戻れたら、白竜が屋上から飛び降りたあの日に戻れたら――。
神様、どうか願いを叶えてくれ。頼む、一生の頼みだ。時間を戻してくれ。
白竜を失わずにすむなら、他はなにも必要ない。
そういつも願い続けた。
しかし、時間は戻らなかった。
俺は今、独りでここにいる。
「――無理だ。時間を戻すことなんか、不可能だ」
とうとう震えだした俺を見て、鬼道さんはふいに哀しそうな顔になり、小さな声でつぶやいた。
「…そうか…剣城も、時間を戻したいと思ったことが…あるんだな」
耐熱机から足をおろし、俺のほうへ歩いてくる。両手を伸ばし、俺の頭をそっと抱えて引き寄せた。
その行動が、彼のどんな気持ちから派生したものなのか、俺にはわからなかった。
ただ、彼はとても哀しそうで、少しだけ震えていた。細い体は雪のように冷たく、どこかで嗅いだことのある清潔な香りがした。
幻のような抱擁に、俺はかすかな安堵と、疼くような痛みを覚えながら身をゆだねる。
このまま時間が止まってしまってもいいような気がした。
しかし、少しの間、そうしたあと、鬼道さんは俺から離れ、つぶやいた。
「行かないと。人を待たせてるんだ」
廊下のほうへ歩き出すのを見て、俺はようやく我に返った。まだ何も話していない。彼を行かせたくない。
「待ってくれ――。…その、何か食べに行かないか!?」
くそっ、なんつー泥臭い誘い文句なんだ。もっと上手いことが言えないのか。
鬼道さんが振り向く。
「…ダメだ。俺は、あいつが持ってくるものしか口にしない」
先ほど俺を抱きしめたときとは全く違う、突き放すような口調で告げ、鬼道さんは教室から出て行った。



【時間を巻き戻すことは可能だろうかと、彼はつぶやく。
それは、到底不可能だ。神に逆らう悪魔の所行である。しかし彼は、実際にそれを行ってみせた。悪魔と契約を交わし、墓の底から彼を連れ出した。彼は、不可能を可能にし、彼は、今、現にここに存在している。
月に照らされた夜の世界を、彼は軽やかに踊り狂う。
「彼は俺、俺は彼」――歌うように語りながら、日ごとに、彼は、もう一人の彼になってゆく。彼の中で、別の彼の存在が日増しに大きくなり、もとの彼は消えてゆく。彼でない彼が、彼の体で彼の声で、笑い歌え、愛する。
彼に向かって手を伸ばす彼、彼に向かって、ささやきかける彼。
彼の中の彼に、彼は悲痛な声で訴える。
頼む、これ以上、彼に触れないでくれ。彼に微笑みかけないでくれ。彼を求めないでくれ。
だって、"俺"は、その男を、殺したいほど憎んでいるのだから――。】



週明けの月曜日、拓人先輩は、朝からかんかんに怒ってやってきた。
「あれほど念を押したのに、金曜日はよくもすっぽかしてくれたな!剣城!」
拓人先輩の来訪は予期していたが、まさか朝一で襲撃を受けるとは思わなかったため、完全に逃げ遅れてしまった。
「…持病のしゃっくりが急に止まらなくなって、病院に行ってたんです」
「剣城にそんな持病があるなんて、聞いたことがないぞ!剣城を待っている間に、図書室を三往復もして、短編集を三冊も読み終えちゃったじゃないか!」
「何で短編集だけだったんですか?」
「剣城が来たら、すぐ切り上げられるようにって。なのに、いつまでたっても来ないし、特大の黒百合の花束は届くし、図書室へ行って戻ってきたら、部室の壁に"帰ってきたぞ"って赤で書いた大きな紙が貼ってあるし――」
拓人先輩は俺に、今朝ポストからとってきたというメモを突きつけた。
「見ろ、今日のメモはさらにパワーアップして、なんと血しぶきつきだ」
黄ばんだメモに、赤いしみが派手に飛び散り、そこに筆ペンで"あれは不吉な鳥""壁を血で塗り替える""巣の中の小さな骸骨"と書いてあるのを見て、俺は少し目眩がした。
「それにほら、こっちも」
引きちぎられた大学ノートに、数字が並んでいる。
"2 35 15"
"41 12 11 23 42 3"
"13 40 474 2 23 20 42 1 10 2 15 42"
――本当に、この数字は、どういう意味なんだ?ヒントは自分の名前だと、奴は言っていたが…。
メモを見おろしながら、休日の出来事を思い起こしていると、頬のあたりに視線を感じ顔を上げると、鞄を肩から提げた狩屋が、俺を睨んでいた。
目があうと、狩屋は慌てたように瞳を丸くし、それからツンとそっぽを向いてしまった。
はぁ、どうしてここまで嫌われているんだ。
「剣城、なに溜息をついてるんだ?俺の話を無視して、どこを見てるんだ」
拓人先輩が、俺の鼻を親指と人差し指でつまむ。
運よく、そこで救いのチャイムが鳴った。
「くそっ、昼休みにまた来るからな。逃げるなよ?わかったな?」
何度も振り返って念を押し、去っていったのだった。


「すみません、拓人先輩」
小声で謝りつつ、俺は昼休みになると、さっさと図書室へ非難した。
『腹が減ってるときに図書室へ行くのは、とても辛いんだ、ご馳走が目の前に並んでいるのに、眺めるだけで食べられないからな』と言ってたので、ここなら逆に安全だろうと予想したのだが、カウンターに狩屋が座っているのを見つけ、引き返したくなった。
くそっ、今日はとことんついてないらしい。
向こうも俺に気づき、唇を尖らせ、思い切りガンを飛ばしてくる。
クーラーがきいているはずの部屋がとたんに暑くなり、俺は蛇に睨まれた蛙のようになりながら、カウンターの前を、軽く会釈し通り過ぎた。
狩屋が、いつものように目を鋭くさせる。
毒を吐かれる前に、早足で閲覧コーナーへ向かう。
席を物色していると、窓際に意外な人物の姿が会った。

鬼道さん?いや、違う。デモーニオだ――。

手に薄いハードカバーの本を持ち、ページをめくっている。
俺は息を潜めて、デモーニオのほうへ近づいていった。
「デモーニオ」
声をかけると、肩を揺らして顔を上げる。そのとき本のページがめくれ、表紙の裏側に細かい数字がびっしり書いてあるのを、見てしまった。
デモーニオが慌てて本を閉じ、怯えているように体をすくませる。
この弱々しい目は、やはり鬼道さんではなく、デモーニオのほうだ。今見たものには触れず、優しい感じの声音で声をかけた。
「俺のこと、覚えてるか?」
尋ねると、本を胸に引き寄せるように抱きしめ、うなずいた。
「剣城…だよな?あのときは、ありがとう…」
鬼道さんでいるときの記憶は、デモーニオにはないのか?それとも、知らないふりをしてるだけなのか?その辺りの判断がつかないまま、俺は穏やかに言葉を続けた。
「名前、覚えててくれたんだな。隣、いいか?」
「…どうぞ」
隣の椅子に腰をかける。理科室で鬼道さんと会っていたときは、非日常的な状況に幻惑されて気づかなかったが、こうして見ると、デモーニオは保健室へ運び込んだときより、さらに痩せたみたいだ。
「読書の邪魔をしてすまない。何の本を読んでたんだ?」
「マクドナルドの…『昼の少年と夜の少女』」
「ああ、それ、児童文学のファンタジーを書いてる人だよな?『北風のうしろの国』読んだことあるぞ」
嘘だ。拓人先輩が嬉しそうにうんちくをたれながら食べているのを見て、タイトルを記憶してただけだ。
「その本は、どんな話なんだ?」
デモーニオが俯く。
「…悪い魔女に、赤ちゃんの頃から岩山に閉じ込められ、夜の世界しか知らない少女が…昼の世界しか知らない少年に…会う話…だ」
「おもしろそうだな。俺も読んでみたいな」
何とか表紙の裏を、見ることができないだろうか。
しかし、細い方が小さく震え、本を抱きしめる指に力がこもるのを見て、俺はそれ以上の追及を諦めた。
さりげなく身を引き、なんでもない世間話をする調子でファンタジー文学の話をした。
すると、デモーニオはのろのろと唇を動かした。
「俺も、どこか別の世界へ行けたらいいのにな…。この本の少女みたいに…俺も、昼の世界へ行けたらよかったのに…」
自分自身につぶやきかけているような儚い、哀しい、諦めの漂う口調だった。
その姿は、鬼道さんとはあまりにも対照的で、弱々しく、俺は胸を突かれた、デモーニオの青白い頬と伏せた瞳を見つめた。
「…その、デモーニオ、なにか悩みでもあるのか?俺でよかったら話くらいは聞くが」
伏せたまぶたをそっと上げ、デモーニオが俺を見る。
その瞳は、これまでのように虚ろではなく、目が合った瞬間吸い込まれてしまいそうな、深さと憂いをたたえていた。
「剣城は、いい人なんだな。…俺なんかに、近づいちゃダメだ」
ひっそりと立ち上がると、デモーニオは本を胸に抱えたまま、俯き加減に去っていった。
昼の世界へ行けたらよかったのに…と言う言葉が、耳の奥で繰り返し響いた。
デモーニオが持っていた本――。ずいぶんと古いようで、表紙が色あせていた。裏に書かれた細かな数字――あれは、なんなんだ。
土曜の夜、鬼道さんは、壁の数字を雑巾で拭き取っていた。きっと数字には、何か重要な意味があるようだ。

――ヒントは、俺の名前。"き、ど、う"だ。

あの数字は、鬼道さんだけでなく、デモーニオも読むことができるのか?
何故、デモーニオは、鬼道さんに変わってしまうのか。
そうなったきかっけは、なんだったんだ。
不動さんと暮らしはじめる前、デモーニオは、昼休みに友人と喋りながら飯を食べる、ごく普通の人間だった。
それが、何故、食べられなくなったんだ。
やはり不動さんに、関係があるのか?デモーニオを夜の世界に閉じ込めている悪い魔女は、彼なのか?

――…ダメだ。俺が、あいつが持ってくるものしか口にしない。

鬼道さんが言っていたあの言葉も気になる。
それに、『近づいたらダメ』ってどういうことなんだ…。
「くそ、まったくわからねえ」
机に肘を突き、大きな溜息を吐いた。
はじめは天馬の頼みでフィディオのサポートのつもりだったのだが、"鬼道"と"デモーニオ"の秘密に、俺はすっかり心を奪われていた。
きっと理科室で、鬼道さんにあんなことを言われたせいだ。

――失ったものを取り戻す方法を、剣城は知っているか?

それは簡単なことだと鬼道さんは言っていた。時間を戻せばいいのだと。
現実に、そんなことは不可能だ。
鬼道さんも時間を戻したいと思ったことがあったのか?それは叶えられたのか?だとすると、何故鬼道さんは、夜ごとにいつも彷徨うんだ?
ダメだ。いくら考えても堂々巡りで、胸が押しつぶされるように苦しくなるばかりだ。
カウンターの前で、ふと殺気を感じて横を向くと、狩屋が唇を尖らせ、俺を睨んでいた。
「見たけど」
責めるようにぼそっとつぶやかれ、俺はそこから動けなくなった。
な、なんだ?なにを見たってんだ?狩屋はなにに怒っていやがるんだ?
「最悪」
は?
何が最悪なんだ、何故毒を吐かれるのか理解できないまま、狩屋は唇を噛み締めあさってのほうを向き、カウンターから出て行ってしまい、俺は途方にくれ、それを見送ったのだった。
わからねえよ、狩屋。


 




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