六章 上


【俺はどうしてしまったんだ!
おかしい、こんなことははじめてだ。繰り返し、繰り返し、アレをした。なのに、何故なにも起こらない。誰もやってこない。聞こえない!見えない!感じられない!
いつも、アレをすれば、あいつらが投げ捨てていったゴミは、俺の体の中から吐き出され、消えてしまったのに。
なのに、ダメだ。いくらアレをしても、変わらない。腐臭を放つぐちゃぐちゃした黒いものが、俺の中に溜まってゆく。
アレをしたのに!
何度も、何度も、アレをしたのに!
まだ足りないのか?まだ、アレをしなければいけないのか?
毎日、毎日、胃が捻じ切れそうな気持ちで、アレをする。そのうち、アレをすることを考えただけで、頭が痛くなり、吐き気が込み上げるようになってきた。
それでも、アレをすれば、全部よくなる。胸の中に溜まっている汚いものも、震えるような不安も、恐怖も、怒りも、絶望も、なくなると信じていた。
けれどダメだ!
もう、アレをしても、ゴミ箱は空っぽにならない。
お前のせいだ!お前が、俺を狂わせた。
奪うのは、俺のはずだったんだ。
お前に絶望を味わわせ、縛りつけ、飼い殺しにするはずだったんだ。
気がついたら、奪われていたのは俺だった。
お前が、なにもかも!全部!奪っていった、盗っていった!
なのに、罪悪感など微塵もない顔で、俺のあとについてくる。
このうえ、まだ求めるのか?
俺の体から、心から、削りとってゆくのか?

俺にはもう、なにも残っていないんだ!】



〜六章・誰が、小鳥を殺したんだ? 上〜

声を殺して泣き続ける俺の手を優しく握り、拓人先輩が連れていってくれたのは、カラオケボックスだった。
ここなら、泣いても他の人にはわからないだろ。
やわらかな声で、澄んだ笑顔で、そんな風に言われ、一度引っ込んだ涙が、またこぼれてきて、俺はたっぷり四十分は、らしくもなくぐずぐず鼻を鳴らし、しょっぱい汗を目から滴らせた。
途中、切れ切れに、白竜に嫌いだと言われたとか、出て行けと言われたとか、訴えたような気がする。
拓人先輩は俺の隣に並んで座り、右手をそっと握っていてくれた。
あんまり、しゃくり上げて、喉がひりひりし、鼻の奥が痺れ、頭が痛くなり、しまいには疲れて涙も出なくなってしまった。それでも、俯いて肩を小さく震わせている俺に、拓人先輩が兄さんのように優しく語りかけてくる。
「…剣城に会う前にな、マサキの部屋に行ったんだ。マサキは、剣城のこと、とても心配していた。…俺に、剣城を助けてあげてくださいって、頼んでいたよ」
胸が、別の痛みで裂けそうになる。
狩屋が、拓人先輩にそんなことを言っていたなんて。
俺は狩屋に、ひどいことをした。どうして、傷つけたくないのに傷つけてしまうのだろう。
唇を噛みしめ、喉を震わせる俺の手の甲を、拓人先輩が握りしめた指で、そっとなで、あたたかな声でささやく。
「なぁ…悲しいときは、うんとバカバカしい想像をするといいぞ。例えば、陸上部で棒高跳びをしている憧れの先輩が、笹舟に乗って修行の旅へ出てしまう話なんて、どうだろうか。少女は、一生懸命書いたラブレターを、先輩に渡そうとするのだが、先輩は、川までぴょーんと、飛んでいってしまうんだ」
「…それは、俺が書いた、おやつの三題噺です」
ひっく…と、しゃくり上げながら言うと、
「え、じゃあ、新学期に教室に行ってみたら、同級生がパンダばかりだったという話はどうだ?シュールだが、なかなか愉快なんだ。あのな…」
また、俺がずっと前に書いたおやつの内容を、楽しそうに語りはじめる。
「そうして―パンダが殺気立ち、ばんばん床を踏みならすんだ。な、想像すると元気が出るだろ」
「…拓人先輩、その話を食べたとき、ホワイトチョコにしらす干しを振りかけたみたいな味で、メルヘンじゃないって言って、ぐったりしてました」
「ならば、とっておきの話だ。マッチョなサーファーが、恐山から滑り落ちてきて…」
俺がこれまで書いた三題噺を、母が子供に聞かせる優しい昔話のように、次次と話してくれる。食べたときは、変な味とか美味しくないとかさんざん文句を言って、悲鳴をあげたり、めそめそ泣いたりしていたのに…。
おだやかな笑顔と、やわらかな澄んだ声で語られる物語は、別の話を聞くようにあたたかく懐かしく、疵だらけの胸に、甘い薬のように染みていった。
「さぁ、次は、田舎の少女の友情の話だ。二人はとても仲良しで、折り紙で手紙のやりとりをするんだ。きなこをたっぷりまぶした揚げパンのようで、最高に甘くて美味しいんだ」
「さっきから、俺の話ばかりじゃないですか」
拓人先輩が、清楚な花のように微笑む。
「だって、剣城が書いてくれた話だからな…。全部、覚えてるよ…ひとつも、忘れたりしない」
春の風のように、あたたかな声。
俺の手を握りしめている、優しい手。
絶望に閉ざされていた心を、小さな星が照らしてくれる。気持ちが、ゆっくりと浮上し、洗われてゆく。
「なぁ、剣城と出会ってから、もう二年になるな。その間、剣城は少しずつだが、成長してる。あの頃の剣城と、今の剣城は、違う。自分では気づかないかもしれないが…剣城の話を食べ続けてきた、文学少年の俺が言うのだから、間違いない」
朗らかに断言し、握りしめる手に、少しだけ力を込める。
本当にそうなのだろうか。
わずかな自信は崩れ去り、迷ってばかりなのに。
「あのな…。剣城と地図を見ながら宇宙巡りをしたとき、俺が図書館で読みふけっていた本があっただろ?
あの話を読むと、いつも主人公の彼がした行為は正しかったのかと、思うんだ。二人にとっては、それが幸せだったのだろうと思いながら、もしかすると別の方法もあったんじゃないか。二人とも、もっと違う幸せを得ることもできたんじゃないかって、考えてしまうんだ…」
拓人先輩の手の温もりを感じながら、俺も考える。
白竜の美しい思い出だけを心に抱いていられたら、俺は今も幸せだったのではないか。
だが、俺は知ってしまった。白竜は白い翼の天使でも翼竜でもなく、他人を騙したり憎んだりもする、ただの人間なのだと。
「剣城は、ずっと白竜のことを大切に思っていたし、白竜のことで苦しんでいたから、白竜に嫌いと言われたのは、辛かったろうな…。
でも、今の剣城なら、本当の白竜と向き合える。白竜に、憎むだけじゃない別の道を、示してあげることができるはずだ。俺は…そう思う」
さっきまで、もう立ち上がることなど、できないと思っていた。闇は暗く、深く、進む方向もわからず、血を流したままうずくまっているしかないのだと。
けれど、額の血は、拓人先輩が絆創膏を貼ってくれて、止まっていた。
胸に吹き荒れていた激しい砂嵐も、いつの間にか静まっている。
室内の電話が鳴り、拓人先輩が立ち上がり、受話器をとる。
「はい。わかりました。…いいえ、延長は結構です」
受話器を置いて振り返り、まっすぐな笑顔で言った。
「あと五分だそうだ。二時間なんて、あっという間だな。そろそろ帰ろうか?剣城」
「……はい」
俺も立ち上がった。


風はやんでいたが、外は骨まで凍りつくような寒さだった。空気が突き刺さり、顔がぴりぴりと痺れる。
拓人先輩が隣を歩きながら、ぶるっと体を縮める。
「うぅ、やはり冬の寒さは、家でこたつの中でのんびりしながら、本をいただいていたほうがいいな。来週あたり雪が降るかもしれないと予報で言っていたが、困るな。土日は試験なんだが」
「今、なんて言いました」
拓人先輩は首をすくめ、白い手に息を吐きかけながら繰り返した。
「土曜は、試験の一日目なんだがって」
「土曜って明日じゃないですかっ!」
俺は目をむいた。
「ああ、金曜の次は、昔から土曜だ」
「そういうこと言ってるんじゃありません!受験の前日に、なにやってんですか!」
「え…だって、マサキの見舞いに行ったら、剣城がロビーに、暗い顔で立っていたから」
拓人先輩の言葉に、頬がみるみる熱くなる。
そりゃ確かにそうだが…。あの状況で、帰って勉強などできないだろうが…。帰られたら、俺は今、どうなっていたがわからないが…。
ああ、だが、本当に受験生の自覚がなさすぎだ!ただでさえ、危ないのに!
俺は自分のマフラーをはずし、拓人先輩の首にぐるぐる巻きつけた。
「今更数学の公式覚えろとか、問題集を解けとか言いません。今日はあたたかくして、早く休んでください。風邪を引いたら、百パーセント落ちますよ」
手袋もはずし、拓人先輩の手をつかんで、無理矢理はめる。
拓人先輩は、頬を膨らませ文句を言った。
「そこまで言うことはないだろ。俺は本番に強いから、今まで以上の実力を発揮できるはずだ」
「それ、実力じゃなくて、まぐれとか奇跡ですから」
「なら、奇跡を起こしてくる」
そう言って"文学少年"が、光のように、まぶしく笑う。
能天気さに呆れながら、これなら本番でも緊張したりしないだろうと、少し安心する。
拓人先輩は、俺のフラーに首をうずめ、手袋を顔に押し当て、嬉しそうに、
「あったかいな」
と呟き、先程よりも軽やかな足取りで歩き出した。
ウェーブがかった髪が、風によってふわりと揺れる。
長い夜道も、隣に誰かがいるだけで、あたたかな気持ちになる。前へ進む、勇気がわいてくる。
「じゃあ、俺はこっちだから」
別れ道で、拓人先輩が、俺の方へ向き直った。
「マフラーと手袋、ありがとう。月曜日に部室で返すよ」
「あ、拓人先輩」
離れてゆく拓人先輩を呼び止め、俺は鞄からペンケースを引っ張り出した。
「?」
首を傾げる拓人先輩に、持ってくださいと焦って言いながらケースを開け、いつもの三題噺を書くとき使っているシャーペンをつかみ、差し出す。
「明日の試験に持って行ってください。奇跡を起こすために、お守りです」
何故、そんなに恥ずかしくて、非科学的で、らしくないことをしてしまったのか。
きっと、拓人先輩が俺を一生懸命励ましてくれたから、お返しをしたかったんだ。
拓人先輩が目を丸くし、赤い顔で俺を見つめる。
俺の頬も、熱かった。
シャーペンを握りしめる俺の手を、手袋をはめた手が、ふいに、やわらかく包み込んだ。
拓人先輩が、俺よりも長い睫毛を伏せてそっと俯き、口元に小さな笑みを浮かべる。
「なら、剣城の気持ちを、このペンに一杯込めてくれないとな。俺が、数学の問題を倒すことができるよう、祈ってくれ」
俺は拓人先輩の手の上に、残る片手を重ね、恥ずかしさに俯いて、呟いた。
「奇跡が起こって、拓人先輩が数学の問題をすらすらといて、本命の学校に合格しますように」
吐く息が白く見えるほど冴え冴えした闇の中、人気のない十字路で、額と額がくっつきそうな距離で、互いの体の温度と、高鳴る鼓動を感じながら――。心から指先へ、言葉を伝える。
手袋の布越しに触れ合っている手が、指先が、ジンと熱くなる。
拓人先輩が顔を上げる。
「ありがとう」
鳶色の瞳をなごませ、うんと幸せそうに微笑み、シャーペンを大事そうに握りしめて離れた。
「剣城のおかげで、明日は頑張れそうだ」
「寄り道しないで、まっすぐ帰ってくださいよ。風呂で本に夢中になって、水風呂になっているのに気づかないで熱出したとか、そんな間抜けなことはやめてくださいよ。濡れた髪のままふらふらしないで、よく乾かして、すぐに眠ってください。目覚まし時計をセットするのを、忘れないでくださいよ」
「わかったよ」
笑顔で遠ざかりながら、シャーペンを握った手を、あざやかに振る。
ほっそりした姿が、夜の闇の向こうへ消えてしまうまで、俺はいつまでもいつまでも見送った。



【奪われたものを、取り戻さなければ。
これ以上、なにひとつなくしたりするものか。
もうアレをしても、救われない。ゴミ箱から汚い言葉があふれ出し、頭が正常に機能せず、心が壊れてゆくばかりだ。
取り戻せ、取り戻すんだ。
心を宙に飛ばせ、目を凝らせ、耳をすませろ。
うまくいかない。今日も眠れない。夜が過ぎ去り、朝が来るのが怖い。
冷たい部屋の中から、白々と明けてゆく空へ太陽が昇ってゆくのを見るとき、裁かれ、罰を受けているような気になる。すべてを明らかにするまばゆい光に、体が引き裂かれそうになる。
弱気になるな!たとえこの体が、ぼろぼろに崩れても、手足がもげても、命と引き換えにしても、取り戻すんだ。
ああ、そうすればきっと、幸いの星に辿り着ける。
そこで俺は、ようやく"ほんとうのさいわい"がなにであるかを、知ることができるだろう。あたたかで清らかな、その聖地で、安らかに眠ることができるだろう。

メモ
今日の着信は、五十件。
音を切っているはずなのに、携帯が震えるたび、頭の中で着信音が一杯に鳴り響く。
携帯を見えないところに移動させても、ずっとずっと鳴り続けている。
もうやめろ!やめろ!ゴミ箱は一杯で、とっくにあふれてる!これ以上、ゴミを投げ込むな!

B死ね!裏切り者!悪魔!
母さんからも、電話。あなたが呼んだくせにと怒っている。来週父さんが来る。うるさい!
電話、鳴り止め!
誰も彼も、全員うるさい!
もう嫌だ!】





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