第1話
テネブラエの中心地からはるか北東に位置する小さな小さな村があった。
わずかな人口しか持たないこの村は、その存在を自国にさえ忘れ去られた場所だったのだ。
国からの恩恵を受けることはほとんどないものの、テネブラエを従える大国ニフルハイムからの徴兵令さえ届かなかったので、ある意味平和であったのかもしれない。
道に迷ったハンターがごくまれに流れ着くこと以外は、外部の人間がこの地に足を踏み入れることは皆無であり、地図にすら載ることのない閉ざされた村。
幸いにも土地は肥沃でどのような農作物も育ち、更に村から北に下った位置にある山からは貴重な鉱石が採れることから、それらをひっそりと売ることで村人が生活に窮することはただの一度もないのだった。
いつまでもこの平穏が続くものだと、村の人間は誰もがそう思っていた。
麦の収穫を間近に控えたあの日までは―
村の中でも一番端に建つ白い家から、一人の女が姿を現した。つばの広い麦わら帽子をかぶり、左手には大きなざるを抱えている。
この女の名はヴィーデ。村人からは「白い家のヴィーデ」と呼ばれていた。
「ふう…あっつい…」
もうじき夕方になるという時間なのに、いまだ太陽は高い位置からヴィーデをじりじりと照らした。
目を細め、麦わら帽をぎゅっと目深にかぶり直し庭に出る。
無駄に広い庭全面を使って、ヴィーデは薬草を育てていた。
毒消し、感冒、熱さまし、腹痛、様々な薬草を収穫しては、村で唯一医師と呼ばれる老人の家へと届けていた。
よいしょとしゃがみこみ、収穫の頃合いを迎えた薬草を葉の根元からぷちぷちとちぎっていく。
根っこから抜かずに葉だけを摘み取れば、脇芽がどんどんと伸びてさらに収穫できるからだ。
ふと、ちぎり取った薬草に虫食い跡があるのを見つけた。
「あー…やられた…駆除サボったからなぁ…」
生い茂る薬草を手で探ると、いるわいるわ、小さな芋虫が美味しそうに薬草を食べている。
うわあと顔をしかめ、素手でそれらの虫をつまんでいく。
「もー…まあ虫が食べても安全ってことだけど…」
どうせ乾燥させてすり鉢で粉々にしてしまうのだから、多少の虫食いは問題ない。
ふんと鼻を鳴らしてもぎ取った薬草を次々にざるへ放り込んでいく。
それにしても今日は暑い。異常気象という奴だろうか。どこかの旅人が、氷の神様が死んでしまったという話をしていた。
そのせいだろうか。そもそも神様というものが死ぬのかどうか。
もっとも、ヴィーデは神話の知識など持ち合わせていないし、この世に神様などいないと思っている。
「…だって神様がいるのなら…私を…」
ため息交じりに呟いたとき、遠くで雷鳴がとどろいた。
「え…雷?こんなに真っ青な空なのに…」
上を見上げても雲一つない快晴である。それなのにゴロゴロという響くような音はますます大きくなっていく。
そのうち、遠くの空から巨大な黒い箱がこちらへ飛んでくる様子が見て取れた。
「なっ…なに?なに?」
灯がともった炭のようなそれは変わらず唸り声をあげながら、村のすぐ上空でぴたりと止まった。何事かと数名の村人が家から飛び出す。
外で遊んでいた子供は家の中に押し込まれ、大人たちは固唾を飲んで突然やってきた黒い箱を見つめた。
「あっ…!」
箱から、人の形をしたものがばらばらと落ちてきた。目が赤く光るそれは、明らかに人間とは異なる。その手元を見ると、銃と思しき物が携えられている。
不気味だった。おびえる村人をぐるぐると見回す様子は、何かを確認するようにも見えた。
と、その人ならざるモノ達の背後から随分と背丈の高い男が現れた。真っ黒いロングコートを羽織り、かぶった帽子からはカーマイン色したやや長い髪の毛が覗いて見えた。
まるで大きな鴉のようだとヴィーデは思った。
村人から注目を浴びながら、男は肩で風を切るようにゆらゆらと村の中心まで歩いてゆくと
「おおーい、ここにさあ、村長さんっているのかなあ?」
場の緊迫感に似合わない調子でそう言った。この村には正式な村長というものは存在しない。その都度最年長の者が村の代表のような役割を得るのだ。
現在それを担っているのは、ヴィーデが薬草を分けているメディクスという老人だった。
杖をつきつつ、メディクスはいぶかしげな表情で鴉のような男へ近づいた。
「…村長というわけではないが…ワシがこの村の代表を務めている…あ…あんたもしかして、ニフルハイムの…」
「おー、良かった。ニフルハイムを知ってるんだ。いやさあ、ここ、地図にも載ってないでしょう?もう探すのに苦労しちゃって…どんな原始人が住んでるのかと思ったけど、相当な田舎ってだけでまあみんな普通だね」
言葉通じなかったらどうしようかと思ったもん、と口元に笑みを浮かべながら言った。
この地がニフルハイムの属領の一部であるということをすっかり忘れて生きている人間がほとんどだったので、その偉大な帝国名を耳にしてなお首をかしげる者がいた。
しかし私は、その国名からさらに別の国の名がとっさに浮かんだ。
ルシス王国…
ニフルハイム帝国と長く敵対関係にあり、クリスタルを所有する唯一の国だ。
「…その…ニフルハイム帝国の御仁がこのような辺鄙な土地へ一体どのような用向きで…?」
「ああ、ちょっとね、イドラ皇帝陛下の命令で人探し」
「ひ…人探し…」
「そ、この村にいるんでしょ?不思議な力を持つっていう…」
「…!」
「ヴィーデっていう子」
男の言葉で、村のざわつきが一瞬で消えた。その表情から、焦りと狼狽と恐怖を悟った男はさらに続ける。
「どんな力があるかなんてオレは知らないけど、連れて来いっていう命令でねえ…」
「そんな…そのような者はここには…」
「あー…嘘はやめてほしいなあ」
「……も…もし…もしお断」
「村を消してでも、女を連れて来いってさ」
「………」
村の、特に男たちの顔は恐怖から絶望へと変わった。
メディクスはひれ伏し地面に額をこすり付けて帝国からの使者を見上げる。
「ど…どうか…それだけはご勘弁を…!ヴィーデは…この村の守り神なんだ…!奪われたらワシらは…!」
「オレだって喜んでこんなことしてるんじゃあないさ。でもねぇ、立場上、今は皇帝陛下には逆らえないんだよね。できれば、野蛮なことはさせないでくれるかな?」
そう言って指揮棒でも振るように右手を上げると、男の背後に立っていた不気味なロボットのような物が一斉に銃口を村人に向けた。
争うことなど一切知らない者ばかりのこの村には、その絶大な兵力に立ち向かう武器も術もなかった。
立ちつくし震えることしかできない村民を憐れむように一瞥した後男は言った。
「しかしまあ…こんなちっぽけな村の守り神ねえ…一体どんな…」
男が言い終える前に、ヴィーデは薬草の入ったざるを抱えたまま歩き出した。
動くことのできない村人の中でただ一人、ゆっくりと歩みを進める女を見て、黒ずくめの男は嬉しそうに口角を上げてああと言った。
「君が、そうなんだね?」
「………私が、ヴィーデです」
真っ白いシンプルなワンピースに、不似合いな長靴を履いている。男はヴィーデが目深にかぶった麦わら帽子をゆっくりとした動作で外した。
黒蝶真珠のような艶のあるやや癖のかかった長い髪と、同じ色のまつ毛に縁どられた大きな目は優しげに垂れ下がっている。
覚悟を決めた人間の、しかし諦めとは違う何かを感じさせるその瞳に、男はいいねえと小さな声で呟いた。
淑女をダンスに誘うように一礼し、左手をヴィーデに差し出しながら
「ニフルハイム帝国へご招待いたします。どうぞお手を…女神さま」
と言った。一息細く吐いて、ヴィーデはその手をつかもうと手を伸ばした。
が、メディクスが地面に膝をつけたままヴィーデの腕にすがりつく。
「待ってくれヴィーデ!お前がいなくなったらこの村はおしまいだ!どうか…」
「…私が行かなければ、どのみちみんな殺されるのです…私が本当に村の守り神なら、行かなくちゃ…」
「…まっ…ヴィーデ…!!」
哀れな老人、今にも泣きそうな村人…けれど、この村に一切の情など残ってはいない。
だって、やっと使命が果たせる機会が訪れたんだもの。やっと、終わりにできるかもしれないのだから。
ヴィーデは心の中でそう呟いて、鴉のような男の後について空飛ぶ大きな箱に向かって歩き出した。
男は大人しくついてくるヴィーデを見下ろし少しだけ微笑み、背後に立ちつくす村人を一瞥する。
「あーあ、なぁんか可哀そうなことしちゃったよねぇ。みんな泣いてるよ…いいの?お別れの言葉ひとつ言っていかなくて」
「いいんです…」
こんな村…と付け加えたが、そのささやくような言葉は風に遮られ男の耳には届かなかった。
ふと、男は立ち止まりくるりとヴィーデに向かい合うように立つと、持ったままだった麦わら帽子を小さな頭に優しくかぶせた。
「オレね、アーデン。アーデン・イズニア。よろしくね、タレ目ちゃん」
「…タレ目ちゃん…」
「さあ、行こう。足元気を付けて」
そう言って再び差し出されたアーデンと名乗る男の手にそっと指先で触れると、ぎゅっと握られ腕を強く引かれた。
大きな身体にぶつかるようにして倒れこむと、肩をしっかりと抱かれる。
アーデンは乗り込んだ箱の扉が閉まりつつある中、悲痛な表情を浮かべ続ける村民にヴィーデを見せつけるようにして言った。
「そんじゃ、ジャマしたね!大丈夫、君たちの女神さまはオレが責任もって面倒見るからさあ」
大きな声でそう言って、右手を2、3度ゆっくりと振った。
黒い箱がゆっくりと上昇すると強い風がびゅうと吹き、ヴィーデの麦わら帽子を攫った。
あ―、
と思った刹那、アーデンの腕が素早くそれに手を伸ばし捕まえる。
ナイスキャッチ、と小さな声で呟いて腕の中のヴィーデににっこりと笑いかけた。
最後くらい、どうしても好きになれなかったこの村の姿を見ておこうかと思っていたのに。
ヴィーデは自分を生まれ育った村から連れ去るこの男の瞳から目を逸らすことができなかった。
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