開戦の狼煙


廊下の曲がり角で派手に人とぶつかってしまった。分厚い化学の資料集が大きな音を立てて落下し、それにびっくりした。
ああ、このシチュエーションって漫画ならぶつかった異性と何やかんやで恋に落ちるフラグだよなあ、なんてどうでもいいことを考えながら私自身も後ろに倒れていく。これは絶対お尻痛いに違いない。だからこそぶつかった相手がイケメンじゃなかったら許せない、と自分の非を棚上げして思った。しかしそんなことは十中八九ありえないのでとりあえずこの相手を恨むことに決定。

「あっ」

スローモーションで私の世界が進む中、聞こえた声に目線をあげれば…、何とそこにはイケメンが。
やったあ、漫画みたいな展開じゃん!と内心思いながらも次にやってくるであろう衝撃に身構えてぎゅっと目を瞑る。

どしん、という音とともに尻餅をつけばやっぱり想像通り痛くて、喉の奥からうめき声が漏れ出た。

「うぅ…、あいたたた」

「大丈夫か?」

「あ〜…はい、何とか」

足元に影が近付いてきて心配そうな声をかけられたが、ああその声もなかなかにかっこいい。是非もう一度顔を拝見したいと思ったが残念なことに今は若干涙目になっているせいで視界がぼやけてよく見えない。お尻がずきずきと痛んで自力で立つこともできないで間抜けにも床に張り付いたままでいると、すっと目の前に手が差し出されたのがわかった。

イケメン、声良し、さらには性格も良いなんて、超優良物件に違いない!と心の中で10点満点を叩きだしながら素直にその優しさに甘えようと右手を伸ばすと、あろうことか私の手は空振りした。

「え?」

驚きで目を瞬かせながら見上げると、やっぱりそこにはさっき見た通りのイケメン眼鏡さんが立っていた。眼鏡補正での嵩上げを差し引いても、うん、随分整った顔をしている。見れば見るほど満点合格だ。ただ一点、そんな彼がぽかんと口を開けて阿呆面をしているのだけが気になる。
一体何に呆然としているのかと考えてみたがよくわからない。それよりも手を差し伸べておいてすぐさま引っ込めるなんてちょっとひどいのでは?

「あの…?」

ちょっとだけむっとして沈黙を続ける彼に声をかけると、イケメンさんははっとして首を大きく横に振った。

「いやあ、びっくりした」

「突然ぶつかっちゃってすみませんでした」

「いやそうじゃなくて」

顔をそむけながらちょいちょいと何かを指さす素振りをされたが、意味が分からなくてとりあえず指された通り自分の足元に視線を落とした。

「高校生にもなって、くまとは」

くまという言葉にピシリと全身が強張った。いやいや待ってください、今日の私の下着は何だっけ…?思い出すまでもない、大きくめくれ上がったスカートからは昔買ったっきりずっと使い続けているサニタリーショーツが見えていた。中心部分には可愛らしいくまさんがプリントされていて当時の特にお気に入りだったショーツだ。

「うわ、わあああっ!これは、その、違うんです!」

「いい趣味だね」

「だから違う!これには深い理由が!」

ああもう!何で今日に限って!
パニックになって叫んでいると、イケメンさんは堪えかねたかのように吹きだして、大きく肩を揺らしながら笑い声をあげ始めた。そんな大きな声で笑わなくても!と再び涙目になりながら周囲を確認した。こんな醜態他の見られていたらどうしようかと思ったが、よかった他には誰もいない。

いよいよ恥ずかしさで頬が熱くなってきた。よもや初対面のイケメンさんにこんな醜態を晒すことになろうとは夢にも思わなかった。もうこれは恋の始まりどころか人生の終わりじゃないか!?

「ほら、これ落としてるぞ、くまさん」

「だから違うって!」

「いや、くまじゃん」

「くまだけど!」

スカートの埃を叩きながら立ち上がると、拾ってもらった教科書やらペンケースやらをひったくった。相手は余程面白かったのか、失礼なことに未だに肩を大きく揺らしながら笑っている。

「くまさん、授業は?」

「くまじゃないです、みょうじです!もう行きます!」

怒りやら恥ずかしさやらでこれ以上この人に相対するのは不可能だと思った私はお礼も言わず脱兎のごとく敵前逃亡を図った。何で今日に限って、本当に。

「今度はちゃんと前見ろよー」

後ろからかけられた声にちらりと振り返れば、ひらひらと楽しそうに手を振っているのが見えた。笑顔は満点かっこいいのに…、という感想が浮かんだところでその考えはかき消した。
ありえない!あれだけ恥ずかしい姿を晒してしまったんだ!もう二度と会えない!さようなら、イケメンさん。目の保養をありがとう。

化学教室で友達にこっそりとさっきの経緯を話すと、腹を抱えて笑われた。誰一人として私のことを慰めやしないのは、正直業腹だ。
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