新春企画2018





学業成就





「ワシこれじゃ、交通安全」

待宮栄吉がそう言って掌ほどの大きさをした水色の袋をつまみ上げると、右隣りから、えーという声が返ってきた。そちらを振り返る前に交通安全という文字と待宮の顔の間に、ずい、と濃い緑色の小さな袋が割り込んでくる。近すぎてぼやけたピントを合わせるために寒くて丸まっていた背筋を伸ばした。そこには交通安全、と同じ書体で、学業成就、と刺繍されている。

「栄吉くんはこれでしょ」

おかしそうに少し震えた声がそう笑った。寒くて震えているのか笑いをこらえて震えているのかは待宮の知ったところではない。緑色のお守りをその男、名字名前の手から受け取ってその顔を見ると、鼻の頭を赤くした隣の男は口元をマフラーに埋めている。その下の口がにやにやと逆さまに弧を描いているのを見咎めると、待宮は眉間に皺を寄せて盛大に顔を歪めた。

「ンじゃとワレ、リケイダンシ舐めんなや」

それからどん、と鈍い音を立てて名字の肩を拳で軽く攻撃する。う、なんて呻き声は大袈裟な演技であることを待宮は知っているのでやりすぎたか、なんていう考えは全くよぎらなかった。本当は自慢の足でもって尻でも蹴飛ばしてやりたい所だったが、流石にそれをするにはまわりに人が多過ぎる。

「サイテー、超痛いんですけど」

「初殴りじゃ」

「最初で最後にして…」

「そりゃ名前くん次第じゃのう」

じゃあ最後にはなんねーな、肩を竦めてへへ、と名字が笑った。今年も待宮から肩に一撃を食らわされるような事を仕出かすつもりなのだ、この男は。昨年と全く何も変わっていない。どころか、変わるつもりなど微塵もないのだろう。待宮は水色の小さな袋をもう一度品定めするように見詰めて、それから目の前の巫女に手渡した。この日のためにアルバイトとして雇われた女子高生だろうか、随分と若い。言われた通りの値段を払って、紙袋に入れられたお守りを受け取る。

「栄吉くんマジで学業買わねーの?」

学生としてどうなのそれ!と横から野次が入った。学業成就なんて受験の時にお世話になったきりだ。自分は大学一年生、隣の名字は一つ上の二年生。いらない、という意味を込めて名字に深緑のお守りを突っ返す。それどころか待宮は今の所、お守りに縋るほど低い成績を叩き出した記憶などないのだ。

名字は眉を寄せて待宮から受け取ったお守りを見て暫し思案する。如何せん顔がいいばかりに真剣な表情が様になっているが、腹の底ではふざける事しか考えてないような男である。それからもう一つ同じものを取ると、これで、と目の前の巫女に手渡した。

「二つか、欲張りじゃのう」

初穂料と称される小銭と引き換えに二つの学業成就のお守りが袋に入れられて返ってくる様子を見ていた待宮が、そう名字に声を掛ける。この男も割合成績が悪いという話は聞かなかったはずだが。お守り一つでカバーできない程悲惨なおつむだったろうか。待宮の言葉に何故か怪訝そうな表情を返してくる名字は、小さな紙袋を見せびらかすように振った。

「何言ってんの、栄吉くんの分だよ」

急に得意げに笑んでみせる名字。それから急に踵を返して人混みを掻き分け、お守り売り場から離れていく名字の背中を、待宮は追った。確かにお守りは手に入れたのだから、もうここに用はない。群がる参拝客が少なくなった頃、待宮は名字の隣に追い付いて、斜め後ろからその手元をのぞき込んだ。あ、やきそば、なんて名字が気をやった屋台を一瞥して、それより、と視線を戻す。

「エエ、じゃあそれ、くれや」

ほれ、と手を出すが、名字はハァ?と片眉を上げる。アメリカのコメディのような表情を見せたあとに、お守りが二つ入った小袋をもう一度振ってみせた名字は、ニンマリと整った歯並びを惜しげもなく晒した。

「やぁだよ、俺が持ってる」

「なんで、ワシんじゃろ」

「うん」

「だったら…」

くれるのが筋、と続けようとした言葉は、名字の思わぬ行動に途切れた。

お守りが渡されるはずだった待宮の掌に、ひんやりとした氷のようなものが触れたのである。ひ、と思わず声を上げそうになった瞬間、その手がずぼ、と名字の上着のポケットに突っ込まれた。手の甲に、ザラッとした紙の感触が当たる。その熱さは、どうやら使い捨てカイロのようだった。面食らってぽかん、と口を開けた待宮の間抜け面に、愉快そうな名字の顔がずいっと近付いてきた。

「今年の栄吉くんの単位は俺が預かった!」

「…エエ?」

心底呆れました。そんな声色が出た自覚はある。ケラケラと笑う名字がそれに気付いたかは分からないが、ともかく待宮には意味が分からなかった。単位を預かった、だなんて、教授か神にでもなったつもりか。少なくともこの男に待宮を落第に導く権力などないはずだ。待宮の手を捕まえたのとは反対の手に握られた学業成就のお守りを、名字がまた得意げに見せつけてくる。

「成績落としたくなかったら、今年も大人しく俺と一緒にいてください」

ぎゅう、とポケットの中で握られる手。冷たく、待宮の手から温もりを奪う温度の指先な筈なのに、酷くあたたかく感じる。肌を刺すような寒さの中のはずなのに急に頬が熱くなったことを自覚した待宮は、塞がった手の代わりに足で軽く名字の尻を蹴り上げた。へへ、なんて下品な笑い声とは反対に、鼻の頭を真っ赤にした笑顔は変わらず眩しいのだ、今年も、どうせ来年からも。









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