殴り愛企画!



ならばこの洗礼を受けよ
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「…すまない、君のご両親を助ける事ができなかった」

聞き慣れた起伏の少ない平坦な言語に、ナマエの目に光が宿った。先月親についてきてアメリカに来たという子供は、どうやらまだ英語に明るくないようだった。煤で汚れた顔とは対象的に爛々と輝く青い目玉に突き刺された赤井は、思わず目を逸らしそうになって、やめた。

黒の組織、と呼ばれている彼らを追いはじめて、もうどれほどになるだろうか。赤井自身ももう三十路の背中が見え始めた頃、その事件は起こった。組織壊滅に向けての足掛かりとまではいかないが、そこそこの大捕物になる、はずだったのに。

あの日、死体安置所には、二つのストレッチャーが置かれていた。死んだ人間を乗せるこの台をストレッチャーと呼んでもいいのかは定かではない。部屋の真ん中に等間隔で並べられたその台には、白い布で全体を包まれた遺体が、ふたつ。隙間から溢れた手の形をしたものは真っ黒に煤けており、どこかリアリティがない死体だった。

布を捲る。平素は身体を包むように覆い被さっている布は、身体の横で結ばれて死体を包む繭のようになるのだけれど、特別に許可を取ってその様子を見せて貰えることになったのだ。布の下から現れたそれらは形以外は人と言うのも憚られるほどに焼け焦げていて、引き攣って強張った状態で、横向きに転がされていた。

後ろぐらいことなど一つもない、民間人の医者だ。そして、赤井の友人でもあった。

赤井がFBIになるにあたり渡米して、構えた生活拠点。その隣に住んでいたのは日本人の医師の男性と、ヨーロッパ系アメリカ人の看護師女性の夫婦だった。死因は焼死だった。恐らく黒の組織による爆弾の被害、テロと言っても差し支えない凄惨さだったが、社会的な混乱を避けるために表向きはガス栓の不手際が原因の事故として処理された。そんな、不甲斐ない記憶。

両親を失って一人だけ生き残った少年、ナマエは周りから腫れ物のように扱われた。天涯孤独の夫と、年老いた母がいた妻。じきにその、少年から見て祖母が亡くなると、親戚に引き取り手も無かった子供は施設へと引き取られることになった。かと言って子供を引き取れる平穏な暮らしをしている訳でもない赤井には、どうすることも出来なかった。

自分の手から零れ落ちた、救いたかった命。せめてもの餞として、彼らの大切だったものを、赤井が代わりに大切にしたかった。自分の父の失踪の謎と究明と、犯罪組織の根絶と、たった一人の子供。秤にかけたらうち二つは重みで吹っ飛んでいきそうなものだが、父の事件の真相も勿論、あの日の黒焦げの死体を見た赤井に手放せるものなど何一つ無かった。

「シュウおじさん」

助手席の子供が、膝の上に座ったテディ・ベアを抱きしめ直す。赤井が買い与えたそれを、ナマエはいたく気に入ったようだった。ふにゃふにゃと笑う子供の姿に静かに安堵する。歳の近い弟はいたが、妹より年下の、下手をすれば息子ほど年の離れた子供の扱いを赤井は知らなかった。過酷な運命を歩んでいく子供の気休めくらいにはなればと、思った。ちらり、とそちらに視線を向ければ、まるい頬にえくぼを浮かべたあどけない顔が赤井を見上げていた。

「ありがとう」

そういえばナマエに出会うまで、確か子供に怖がられなかったことがなかったように記憶している。身長も大きくて目付きも鋭い赤井は、視点が下にある小さい人から見るとどうしたって親しみにくく見える。赤井自身もそれを自覚しているので、彼に気安く話し掛けるのは屈強な同僚達か赤井の顔の造形に興味を示したらしい女くらいだった。こちらから歩み寄ろうとしたことすらなかったのだから、子供の扱いなど、知っていなくて当然である。だのに。

「助けてくれてありがとう、シュウおじさん」

この子供は初めての邂逅から変わらず屈託なく笑うのだから、赤井のために誂えられた存在なのではと、勘違いしてしまいそうになる。おじさんと呼ぶのは頂けないが、まぁ彼と自分の年齢差を考えれば当然の事ではあるのだ。少し伸びた前髪を、目に掛からないように分けてやれば、擽ったそうに声を上げて笑った子供の瞼がすうっと落ちた。

「…神様みたい」

眠りに落ちる前の、無邪気な言葉。その言葉で、赤井の指先が縫い留められたかのように止まった。途端に、あぁ、駄目だ、と、頭から冷水を被せられたかのようにじわりと思う。願うようにその髪を撫でた赤井の耳に、子供の微かな寝息が届いた。

駄目だ、この子供はいつか気付く。彼の両親の命が奪われるのを未然に防げなかった男の不甲斐なさに。この手の届く範囲の狭さに、力の無さに。神だなんて呼ばれたって、それに応える度量など赤井自身にないことに、赤井秀一は、何も手放すことのできない欲深いだけの男だったと、どうせいつか気付いてしまう。途端に、ナマエの柔らかな寝顔が恐ろしく見える。彼の寄る辺がもう自分しかないから、だからそんなふうに柔らかい笑顔を見せてくるだけなのだ。許されている訳ではない。決して。いつかぜんぶ、しっぺ返しがくる筈だと、そう、それならば。

ならば、いつかその日が来るまで、彼のために神様の顔をしていればいい。いつか彼が大きくなって赤井を断罪せしめるその日まで。せめて、せめてその日までこの子供が安らかに眠れることを願おう。そうしてそれまで、思い上がった愚かな神でいればいい。

「…Sweet dreams」

赤井はそう懺悔して、もう一度子供の柔らかな髪を指で解いた。ナマエは、それこそ天使のような寝顔をしていた。






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