脳内辞典



【紅茶】
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ばしゃ、と頭から掛かる熱い液体。それからがつ、と額にティーカップが当たって、床に落ちて砕けた。いてて、なんて鈍く痛むそこを撫でていると、ネクタイを思い切り引っ張られて首が落ちそうになった。がつ、とヒールがテーブルを踏みしめる音が聞こえて、ぶつかりそうな位置に彼女の顔が寄ってくる。

「アンタが…アンタがあの人を…!」

首が締まるので仕方無しに中腰までを尻を浮かせた。憎しみに任せておれを睨みつけるベビー5は、今にも泣き出しそうなほど目に涙を溜めている。その顔の美しさに思わずにま、と笑って、ネクタイを掴む手に俺も手を重ねた。

「ん〜、いい香りなのにお気に召さなかった?」

「ふざけんな!」

ベビー5の右手の人差し指が銃口に変化しておれの顎から脳に向かって突き付けられる。おぉ怖い、死んでしまってはかなわないので彼女に触れられている部分だけ武装色の覇気を纏っておいた。ベビー5の潤んだ瞳に、つい昨日の出来事が思い出される。

「や、やめてくれ!わかった…彼女とはもう二度と会わない!」

這い蹲って許しを乞う男。その獣柄の絨毯は見たところ、どうやら本物の皮を剥いで作ったものらしい。革張りのソファ、家の細部に施された装飾も上等なもので、屋敷と呼べる大きさではないものの金はそれなりに掛かっているとみえる。テーブルの上のティーセット。精巧な細工だ。缶に入った紅茶の茶葉も、おそらく上等なものだろう。

おれはそいつに突き付けた拳銃をそっと下げて、男の無様さを少しだけ哀れんだ。ベビー5をドンキホーテ・ファミリーの一員だと知ってか知らずか、彼女に惚れてしまったせいでこんな風に脅される始末。愛しているのなら若様に頭でも何でも下げてみればいいのに。まぁ、受け入れてもらえるとは限らないのだが。

「…自分の命のほうが大事かい」

遣る瀬無さに、命ばかりは助けてやろうかとその男を見下ろす。床に額を擦り付けていた男は、がばっと音がするくらいに勢い良く顔を上げて、必死の形相で叫んだ。殆ど怒声だった。

「当たり前だ!あの女の金があっても死んじまったら意味がねぇ!見逃してくれ!」

男の主張に言葉を失って、そっと目を伏せる。きっとこんな時に嘘はつかないだろう。それだけに、ひたすら残念だ。知らずに銃を持つ手に力が入っていたようで、何度か握り直す。腹の底から沸き立つ怒りに身を任せて、男の眉間に銃を押し付けた。

「…おれは、テメェの命とベビー5の、どっちが大事かって聞いたんだよ…!」

ダァン、と銃声が耳をつんざく。鼓膜以外に痛みはない。ベビー5の腕を辿ると、銃口は下を向いていて、テーブルから煙が上がっていた。遅れて、硝煙の香りが広がる。おれはというとその音で我にかえって、一度瞬きをして彼女の顔を見上げた。ぱたぱた、と被った紅茶が毛先から滴る。

「…っ、絶対に許さない…!」

呻くように言った彼女にどん、と突き飛ばされる。ソファに転がるように尻をついて、テーブルを蹴っ飛ばすように踵を返したベビー5の背中を見送った。声を掛ける間もなく、扉が後ろ手に閉められる。

足音が遠くなって、しん、と部屋が静まり返った。横目で割れたカップを眺めると、外側に赤い液体がついている。紅茶ではない。まだ痛む額に触れると、指先にぬるりとした感触があった。どうやら擦り剥けて血が出たらしい。全く、ティーカップは投げるためのものではないというのに、と苦笑して、おれはテーブルの上の茶葉の缶を手に取った。

「…紅茶に、罪は無いんだけどな」

缶の表面をそっと撫でる。と、指先にざり、と固まった血液が引っ掛かった。あぁ、彼の、あの時の。そう心当たりの男の顔を浮かべながら啜った自分の分の紅茶は、やはり豊満な風味で満ち満ちていたのだった。






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