「あ、ねぇねぇキャプテン!この猫左右の目の色が違うんだ!」
停泊中の島。ローは、野暮用を済ませて船に帰る途中でベポと行き合った。その辺りに自生していたらしい猫じゃらしを手折って彼自身と同じ毛色をした真白い猫を遊ばせている白熊は、こっちこっち!とローを手招きする。断る理由もない、と一歩踏み出したローは短くあぁ、と返事をしてまだ無傷の猫じゃらしを片手に持つべポ歩み寄った。
白猫と黒猫にはオッドアイ、虹彩異食症が多いという。そんな文献に過去目を通した事があったかもそれない。大体その場合オーソドックスなのは青と緑などの同系色だ、なんて考えながらローが背後から歩み寄る。と、意識を毛虫のような猫じゃらしの先端に集中させていた白い猫が、睨みつけるようにローを勢い良く振り返ってその双眼で捉えた。その左右違う瞳の色におや、と少し目を丸くしたローは、宝石のような真ん丸い目の色に少し感心したように言った。
「…緑と、赤…か」
「うん!珍しいよねえ!」
かわいいなあ、とベポが笑う。ローは自分から興味なさ気にふい、と視線を逸らした猫を見て、以前にもそんな眼の色を見たことがあった、と思い至った。
あれは、まだローが白い病魔に侵されていた、小さな子供だった頃ではなかっただろうか。そう、あの忌まわしきファミリーにいた時の。
その男は歪な男だった。人としての形こそ成してはいるが、人間としてはどうしても歪だった。笑み、思考、言葉、それらも歪んでいたが、ならば一番は、と聞かれるとやはりそこだろう。
「なあ、どうして名前は左右の目の色が違うんだ」
幼いローは、帽子の下から男、名前を見据えて問いかけた。この男はどうやら最高幹部の名は賜ってこそいないがなかなかの重役のようで、その仕事は捕虜からの情報収集を主としていた。人の心理を読むことに長けていて、どうすれば相手が絶望し諦め、どうすれば情報を落とすか、この男はそれを熟知していたようだった。
食堂で自ら淹れたコーヒーをテーブルに運んだ男は、片手にカップを持ちながらキョトンとした顔でローを見下ろした。一度ゆっくりと瞬きをした名前の眼は、片方が楽園の海のような鮮やかなエメラルドグリーンで、もう片方は動脈血のように発色の良いレッドである。ローを見下ろしていた目が一瞬考えこむように斜め上に向けられて、それからにっこりと笑んでローの傍らに膝を折って座り込んだ。
「おや、ロー君はおれの事が嫌いなのだと思っていたのだけれど」
「嫌いじゃ、ない」
「だろうね、控えめに言って苦手…という所かな?」
「……」
そういう所がな、とはあえて言わなかった。この男は人の神経を逆撫でするのが大得意なのだ。少なからず顔を顰めたローに、名前は笑みを深くした。
「どうしてだと思う?」
「えっ?」
「どうして、僕の目は左右の目の色が違うんだと思う?」
「…考えられるのは、遺伝子疾患で生まれつきその色か、若しくは事故で後天的に色が変わった…とか」
「ふふ…そうだね、君は小さなお医者さんなんだった」
ぽん、と名前のコーヒーカップを持っていない手がローの帽子に乗る。この男は態度こそ気に食わないが、頭を撫でるのは力加減を知らないファミリー随一でうまい。他にそんな子供を甘やかすような行動を取る人間がいないからでもあるが。
子供の扱いとしては名前の対応はこの上なく正解に近いのだろう。現にベビー5やバッファローなんかはほとんどこの怪しい男に手放して懐いている。柔らかい物腰に絶えない笑顔はやはり人当たりがいいし子供受けも十分だ。ただ、普通の子供より大人びた性分のローには、それは一人前の人間として扱われていないという事なので歯痒いと感じてしまうのだ。ふふ、とそのまま、ローに二人だけの秘密を説くように、名前は声を潜めて言葉を続けた。
「…この目はね、人の心の中身を覗く事が出来るんだよ?」
「人の心を?」
「そう、だからね」
その善人染みた笑みを浮かべた口が、にまりと斜めに浮かぶ三日月のように形を変えた。あ、とその変化に、思わず体に力が入って、ローは無自覚に喉を鳴らした。
「おれ、人の考えてる事が分かるんだ」
嘘だ。そんな筈が無い。その言葉はローの胸の中で絡まって出て来なかった。
人の心が読めるなんてそんな人間がいるはずがない。いるとしたら悪魔の実の能力者だろう。見聞色の覇気ですら、人がどう動くかは察することができるが「心を読む」とまで正確に相手の機敏を知ることはできない。しかしその目が、その表情が、嘘だと軽くあしらってしまう事を許さない。ましてやこの男が得意とするのは。
「そう、情報収集」
思考の続きを音で示されて、ローは思わず一歩後退った。名前はそこから動かない。ただローの様子をつぶさに観察するように赤と緑の瞳は視線を逸らさなかった。
「おれがどうして情報収集を主として任されているのか、それはこの目を持っているからに他ならない」
「でも…そんな…」
「ある事が理由で片目を無くしてしまったおれに、神様がこの目を下さったんだよ」
もともとの色はこっち、と名前はエメラルドグリーンを指差した。なるほど、名前の髪の色から考えても十分に現実味のある色だ。ゆっくりと呼吸をしたローの心臓に、彼の瞳を指した指がそっと移動した。
「だからね、ロー君の考えている事も当然お見通しさ」
にっこり。その双眼が瞼に姿を隠したのを見て、ローの身体はふるりと震えた。その指でそのまま心臓を貫かれたかのように息が苦しい。名前が声を潜めて、歌うように軽やかに言葉を紡いだ。
「そうだなぁ…君がちょうど一週間ほど前に…ねぇ?」
「…っ!な、んのことだ…!」
ちょうど一週間ほど前。その一言は、ローがもう一歩後退るには十分過ぎる破壊力を持っていた。
「人を傷つける為に刃物を使ったのは、初めてかい?」
ローがコラソンの背中にナイフを突き立てたその日に、他ならないからだ。
口では強がって知らないふりをしても、誰よりも自分がした事を一番良く知っているローの体には無駄に力が入って、両手が拳を作っていた。目を閉じて笑っていた名前が、全てを見透かすように少しだけ目を開いた。この男が直接あの現場を見た訳がない。なぜなら、この男は任務でスパイダーマイルズにすらいなかったのだから。被害者のコラソンが、目撃されたのを確認したバッファローがこの男に話したのなら、それよりも先にドフラミンゴに話が届くはずだ。ならば自分は血の掟を破った事が知られている。そこまで考えて、やっとローは震える唇を開いた。
「…ドフラミンゴはおれを、どうする気だ」
「どうする気も何も…」
「ドフラミンゴから、聞いたんだろ!」
「彼はこの事を知らないんだ」
言っただろう?おれは君の心を読めると。
その言葉に、ローは否定するように首を横に振った。そんな筈が無い。人間の心が読める人間なんているはずがない。例えこの男が異様なほど気が利いてもババヌキを始めとするカートゲームが異様に強くてもローから苦手意識を持たれていることが分かっても情報収集と尋問の才能がドフラミンゴの目に止まって彼自身から勧誘を受けるほどでも、そんな人間がいる筈などない。
「う、そだ…そんなの、うそだ…」
訳が分からない。目の前にいる男が恐ろしくて、思わずひく、と喉を引き攣らせた。
赤い目の方に人の心が映しだされているのだろうか。それなら、きっと今のローの「名前は人の心を読むことが出来るのだ」という言葉を信じ始めてしまっている心境も、その目には全て見えているのだろう。なぁ、そうなんだろう?
心の中で問い掛ければ、名前は、意地の悪い笑みを消して突然眉を下げて困ったように笑った。
「…困ったなぁ、そんなに怯えないでおくれよ」
はは、なんて笑った名前はさっきまでの緊張感を打ち消すように言う。突然そんな風に態度を変えた男は参った参った、と苦笑しながら頭を掻いた。
「君と少しお話しようと思っただけなのだけれど…更に苦手意識を持たれてしまったかな?」
「…お話?」
「だってロー君、おれのこと遠巻きに見ているだけなんだもの…だからつい、ね」
全く悪びれない様子で謝罪した名前は、あざとく首を傾げて赤い目を瞼で覆い隠した。所謂、ウインクである。ごめんね、なんて愉快そうに言った名前に、ローは呆気にとられて口をあんぐりと開けた。
「心が読めるというのは嘘だよ、人の考えていることが分かるというだけさ」
「それの違いが分からない」
「…そうだね、例えば、ロー君がお腹を空かせていることは分かるが、何が食べたいかは分からない…と言ったところかな」
唐突に解けた緊張感に思わず膝が崩れ落ちる。ゆったりと赤い目を開けた名前が、片腕を伸ばして小さな身体を受け止めて、そのまま床に座らせる。ローがふふ、と笑った男を茫然と見上げると、名前はコーヒーカップを持ったまま立ち上がってその温くなっているだろう中身を一口啜った。
「身も蓋もなく言うと、おれの専門分野は心理学で、得意なことはプロファイリング」
だからほんの少し他人の機微に聡いだけなのだと、名前は笑った。は、と安心したように自分の口から息が漏れたのを、ローは自覚する。末恐ろしい男だ。どうせ本気を出せばローがなにを食べたいかすら言い当ててしまうのだろう。む、と唇を引き結んで名前を見上げた。敏い大人は、不機嫌そうなローを微笑ましげに見下ろす。
「ロー君にもいつか、ロー君の神様が現れるよ」
「…神様なんていない」
「いや、賭けてもいい」
きっと君の事を大切に思ってくれる誰かが、君を助けてくれる。
「…これで少しはおれへの苦手意識も薄らいでくれたかな?」
「…少しだけな」
「あ、あと勿論さっきの事は誰にも言わないからね」
「当たり前だ」
ふふ、と嬉しそうに名前は笑って、そうしてローに背を向けて食堂を後にした。恐らく彼の「神様」であるドフラミンゴの所へ足を向けたのだろう。名前の神様など、ましてやこのファミリーの中で神様と称されるなど、その男に他ならない。残されたローはその背中を見送ってから、そっと彼の掌が乗せられた帽子に触れた。
「キャプテン!キャプテンどうしたの?」
は、と名前を呼ばれて我にかえる。どうやら物思いに耽っていたようだ。目の前ではまだ猫に猫じゃらしを差し出したままベポがローを見上げていた。少し心配そうなのは知らないうちに彼の話を幾つか聞き流してしまっていたからだろうか。
「…いや、何でもない」
ローは、白熊と一緒にこちらを見上げてくる赤と緑の目に少しの居心地の悪さを覚えて、帽子の鍔を引き下げた。それなら良いんだけど、とベポが首を傾げる。
「…やっぱり、その色は苦手だ」
「えぇ、綺麗だと思うけどなぁ」
知れず眉を寄せたローの耳に、うなぁ、と不気味な猫の声が転がり込んだのだった。
桐様、リクエストありがとうございました!
←→